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ARCH 70

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集 14
        [第一三五号〜一四六号・2008.4.3〜2008.6.17]


■第一三五号(二〇〇八年四月三日)
 この詩葉メール便の場合、連続して毎日お送りするといった事態はめずらしくない。しかし、三月から今号にかけてのほぼ毎日の配信には、さすがに疲れた。今号を以て、少し休憩したいと思う(ほんとうに休憩するかどうか、わからないが)。
 疲れたのは、量を急いだからではない。最近になってお送りした五十号分ほどの大かたの『ぽ』が、比較的古い作だったためだ。  ある程度の距離をとったり、斜に構えてつき合うのでもないかぎり、自分の古い思考、古い言葉づかいと向きあえば疲弊する。古いものなら捨ててしまえばよいとも思うが、『ぽ』はわたしにとっては保存庫なので、一行や一句でも捨てるに惜しい種子が埋まっていそうな場合は、いくらか怪しくても、残した。そうでないものは、この二月から四月にかけて捨てた。『ぽ』に入れたものの倍以上はある。
 棚卸し、商品入れ替え。
 そう喩えてもよいような頭の動き方の改変が激しく起こっていた。
 これに追いつこうとして、急いだ。

 過去の自分の詩歌ジャンルの書き物を振り返ると、多様な形式で書いているようでいながら、大まかには文体が定まってきているのが見える。それに対してどういう態度を採るか、昨年から今年にかけて追い詰められた。
 文体の定まりは、窒息を意味しないでもない。職業作家ではなく、本能的言語配列探求者が文体を持ったら、終わりではないか!それとも、そう考えてはいけないか?こうして詩論の渦の中に、ふいに、落とされもする。
 戦後詩と現代詩の圧倒的な粉塵のなかに未だにある以上、現代の書き手は、戦後から今に至るまでの誰かの作風の模倣、模倣拒否、パロディー、反撥、同調などといった運動から解放されて詩作することはできない。いつの時代でもそうだが、戦後の空間においてはなおさら、詩作に自由などというものはなかったし、いまもいよいよ無い、ありえないのだ。戦後詩・現代詩の展開の多様性はそれほど圧倒的なものだったと思う。谷川俊太郎を避ければ、岩成達也に近づく(じつは彼らの間には通底する思考法があるが)。ねじめ正一にうんざりして吉本隆明に跳ね返っても、やはり相当にインチキな詩ではないのかと思いながら、堀川正美に戻る。堀川正美は至上だが、しかし、どことなく高度成長期の砂浜に響いていた当時の歌謡曲風の言葉づかいはやはり否めず、微妙に下手くそなあの言葉づかいはなんだろう、評価すべきか批判すべきかと迷いつつ、高貝弘也に行ったりすれば、これもやはり至上の詩。ここからはけっして思潮社の子飼い詩人たちの作になど落ちていくわけにはいかず、どうせならと石垣りんや茨木のり子に戻るが、しかし、よき左翼精神が払底した時代に彼女らの詩を読むのは壮絶に寂しく懐かしく、となれば、ボードレールを再読するのに最適の気分になるので、わざとゴタゴタした注釈の少ないクロード・ピショワのガリマール・ポエジー叢書版で読み直す。これは、完璧。とはいえ、バルザックの文体を詩にしたらこうもあろうかというボードレールのたっぷりした口吻からも少し離れたいと感じて、マラルメ。ついでにツェラン?、ディラン・トマス?、ディッキンソン? ああ、じつは田中冬ニが意外なところで待っていたりして。道造も、津村信夫も。気分が少し落ち着いたところでランボーに行くのはいつもながらシャクだが、少し辿り直しつつ、外れて、初期の吉増剛造へ。
 そう、吉増剛造。『オシリス、石の神』以降の吉増剛造の文体は、やはり決定的だった。一九九八年の「『雪の島』あるいは『エミリーの幽霊』」の扉を開くと、吉増サンに書いてもらった自筆のサインと添え書きが、あの赤いペン字で、いまも細く鮮やかに揺れている。吉増剛造のすべてを吸い尽くそうとした数年間があった!そもそも、『ぽ』の出発にあたって、吉増サンにはヒトカタナラヌ励ましを頂いたものだった。日本詩歌の大変革は、人麻呂、貫之、定家、芭蕉、いくらかは透谷(ああ、透谷がじつは今こそ面白い、なんという現「在」詩だろう、吉増サンはよく見つけたものだ、透谷論書いて…)、藤村、そして吉増剛造、ということになっていくだろうと思っていた。
 たしかに意識的だったとはいえ、初期の『ぽ』は吉増剛造圏で動いていたのではないか?作風に接近しつつ、客観視しようとしつつ、「吉増剛造」に染まり尽くすための『ぽ』ではなかったか?YES。YES。まさに、YESだったろう。エピゴーネンであること、コピーであること、追従者であること。できるだけの大変な速さでそれを恥も外聞もなくやる必要があった。忙しく、あの疾風をまねて、吉増剛造流の集中と錯乱を必死に取り込もうとして。その結果、同時には、たとえば彼の親友/ライバルの岡田隆彦や天沢退二郎を受け付けられなくなるという状態になった。それらは後に、後に。いま、天沢退二郎に夢中になっている。あの人の詩集はたまに見つかるが、安いぞ。おもろいぞ。さすがにフランス中世文学研究の泰斗だ。要らない人はチョウダイな。
 で、吉増剛造なのだった。離れる必要があった。分身とも、神とも、真の師匠とも思う他ないものからこそ血みどろで離れなければいけない。わたしは離れた。バスッ、てな具合だ。ホイットマンやレイモン・クノーやエレディアやユゴーが助けてくれた。ポンジュは役立ったのだろうか。『ベティー・ブルー』のフィリップ・ジャンの文体、クロード・シモンの文体、もちろん、シャトーブリアンの文体、ペソアの、スタンダールの、ヘンリー・ジェームズの文体、いや、なにより強烈だったのはドゥルーズの文体、ラカンの文体、円地文子の、有吉佐和子の、幸田文の、葛原妙子の、安永蕗子の、永井陽子の文体だった。永井陽子は強烈だ。自殺した永井陽子。彼女の文体は、たおやかで遊びに富み、まるでソレルスの文体のように、あらゆる作家や詩人の文体を骨抜きにしてしまえる。それにくわえて、野間宏、マルクス。これらは、まだ十分に取り込めていない。いいか、野間宏の時代だぞ、ふたたび、あれだ、あれ!阿部和重なんか要らない、野間宏だ。どちらも、ミショーとともに今後の復習課題だ。ああ、河野多恵子の中期のものにも、まだ通過していないものがある!
 おそらく一五〇号ほどから『ぽ』は、こんな文体紛争の渦中にあった。騒乱や進行状況がそのまま号数となって現われたわけではない。大きく前後して掲載したり、しなかったり。以前にも書いたが、『ぽ』は一号から最終号まで全部をあわせて一冊の詩集となるべく進行している。こうでもしないと、宮沢賢治のあの巧妙周到な多層的詩世界をわたしの意識の奥で超克する可能性はないと思えたし、フローベールの何段階もの原稿間に発生する多層性の宇宙に立向うこともできないと思えた。『ぽ』のところどころに穴を、詩的神経繊維を、「詩」の外の思考の糸を、連結体としての断絶を、政治性を(ハレルヤ、戦後詩、ユゴー詩、ロルカ詩、ツェラン詩!旧約聖書詩編の麗しくおぞましい数々!)、社会批判を、社会への摺り寄りを、極私的ミクロ&マクロを(ハレルヤ!鈴木志郎康詩とその思考!)撒き散らし、誰が読もうと読むまいと、オレヒトリハ書イテ読ンダカラネ、オレヒトリハ、ろーとれあもんノヨウニ、と進むことにしたのだった。進んできた。うまく行っているなんて言わないが。しかし!少なくとも、一個の心身を賭しての死の行軍だ。放っとけば、くたばるだろう、こいつ。後期高齢者、末期高齢者、ポスト高齢者にはなれそうもない。せいぜいがプレ高齢者ぐらいか。いや、もう死んでいる!ゾンビが書いているのだ。駿河ゾンビ。襲名。

   …と書いてきながら、このノリはもちろんアルトー、ランボー、ロートレアモン、セリーヌではないか。借り物の文体、不快、深い付会、文体の、口吻の、ノリの。ああ、不快、Helas, et j'ai lu tous les styles(ああ、われ、すべての文体を読めり)だ。おお、記憶よ、おまえが沈黙してくれても、彼ら文体たちは存在し続ける、どうすればいいのか、どう言葉を並べていけばいいか、ふたたび歌謡曲を逍遥し、古典を横断しても、結果的に書く文章が加藤周一や菅野昭正ではゲッとなるのよ。いまさら柄谷行人でもない、リアルタイムで全部読んだ蓮実重彦も面白かったが、もうね。ああ、九鬼周造ならいいな、木村敏なんかもいいかな、意外と篠田一士が今どき悪くないな…と息づまるうち、ふいにサン=シモン回想録のあの文体や、いまさらながらにジッド(『法王庁の抜け穴』の、『贋金つかい』の)やモンテルランが甦るのだ。 散文か?散文か?詩なら、…ホイットマン、か?日本なら田村隆一の晩年、なのではないか???いま現在の稲川方人ではないのではないか。散文ダラダラのように詩は詩を突き抜けていくべき時期かもしれない。荒川洋治もなあ、理屈上はああなるだろうけれど、なぜあんなにつまらなくなっちゃったんだろ… けっきょくは、ロートレアモンのあの構想「詩」『ポエジーT』、『ポエジーU』か??????
 マラルメの一節でも引いて、強引に此処らで幕。
  「Quelconque une solitude
???  Sans le cygne ni le quai」。
???????????  ?????????????? (Petit air)
  「とるにたらぬ孤独がひとつ
  白鳥もおらず 岸もなく」 
         (ちっちゃなアリア)
 (…このQuelconqueの使い方は面白いな。散文では、これはやらない。できない。ふつうは名詞の後ろに置くだろ?不定冠詞の前に置いて、どうすんだ?本当に意味の響きや広がりを全的に捉えようとしたら、どうなっちゃうんだろう?それに、「岸」と訳したものの、quaiはどうだ?河岸?防波堤?桟橋?どれを選ぶ?すべてのイメージをあわせたら、どうなる?マラルメはたった一行や数行で、いまの日本の詩歌文体をいまだに凌駕してしまう。ヨーロッパへ行くにも、アメリカに行くにも、たった一冊で事足りる旅の友、マラルメ…)

■第一三六号(二〇〇八年四月二十三日)
 小学生の頃から、特別な理由も必要もなかったのに、ひとりで禅をやったり、ヨガや瞑想をやったりしていた。親も親類も、こういうことにはなんの関心もない家系なので、家の慣習にしたがったわけでもなく、誰かを模倣したわけでもない。今から思えば、勉強もそっちのけで、ひとりで勝手に座禅を組んで過ごす奇妙なガキだった。
 この十五年ほどは労働や生活にあまりに忙しく、どちらもほとんどやらなかったので、すっかり体が固くなってしまった。最近、今回の俗世の人生でやるべきことは大方済んだと思い至ったこともあり、また、もとより極貧生活でもあるところへ次々あらたな税や保険料の取立てがアホらしく募っていくのを見、収入のない老人や弱者、つまり抵抗の力の少ない場所からの搾取がすっかりシステム化されたのを見るにつけて、今後、この時代とこの国民性の中に生きていても詮無いことと結論し(生まれつきのジャコバン主義者なので、いつまで経っても乱も革命の機運もない時代や国民性の中にいることほど苦しいことはない)、そろそろ生の幕引きをしようと考えるようになったが、これにともない、かつての性癖をふたたび自らに許して、時間を見つけては少しずつ「坐る」ようになった。
 ところが、久しぶりに「坐る」ようにしてみると、これが体の元気に滅法よい。なんとか時間をとって就寝前に少し坐ると、一時や二時に寝ても、五時や六時には目覚めてしまう。当然夜にははやくから眠くなり、はじめのうちは困ったが、それにもだんだん慣れてきた。自分の体と頭をもっとうまく操縦してみようという気持ちになってきて、此処のところ、朝から夜まで休息なしにあれこれの作業を課し続ける実験をしている。数日、作業づくめの日々が続くと、やはりある時ガクッと来ることがあるが、だんだんと克服できそうな気がしてきている。子供の頃からの最大の憧れは、自分を、休息も睡眠も食事もとらない永久運動機械にすることだった。そこまではもちろん無理だとはいえ、わずかの余生を残すばかりになった今、そろそろ本気になろうかと思ってきている。もっとも、『トマスによる福音書』では、イエスは、自分がキリストである証拠が「動きと休息とである」と言っているぐらいだから、「休息」という概念を軽視するのはよくない。これは断絶、断層、切断などに当然ながら連繋し、凝縮された高度のエネルギーを取得する際に重要な契機であるには違いない。
 座禅のこういう歴然たる効果は意外だったが、おそらく、意識の中で、一切の思念を流れゆくままにして拘らない、いかなるテーマや問題も重視しないで消え失せていくままにするという内的姿勢に拠るところが多いのだろう。意識や深層意識の中に、大小さまざまの未解決テーマを複数抱えているかぎり、それらはつねにエネルギーを喰い続ける。さまざまなプログラムを実行中のままにしてあるコンピューターが電気を喰うようなものだろうか、と思う。
 大森曹玄の名著『参禅入門』には、臍下丹田に力と気を込めることによって肝臓や脾臓に滞留していた血液が駆り出され、第二の心臓の発生というべき生理現象が生じるという医学者の見解が引用されている。詳細は直接この本にあたっていただきたいが、「副交感神経系のコリン作動系統」というのが働き出して、「アドレナリン=交感神経性反応過程の全体を中和的に調整する」のだという。意識内部の整理や調整だけでなく、身体的な実際の変化もひき起こすというのは、すでにかなり調査のなされた事柄であるらしい。

■第一三七号(二〇〇八年五月二十一日)
 万が一にも買えるはずがないと思って、軽い気持ちで安値で入札していた折りたたみ式のマウンテンバイクのオークション。ところが見事に落札してしまって、あれあれと思っているうちに、いま、部屋にマウンテンバイクを置くはめになってしまっている。
 ときどき乗ってみているが、歩けばなんでもない道路が、自転車に乗ってみると意外につらい長い坂だったりしたことに驚かされている。ひさしぶりに自転車で街を走ってみると、やはりいっそうの注意を余儀なくされるためか、視界がまったく変わる。歩いている時以上に多くのものを瞬時にとらえるように自然になるというのが、けっこう新鮮な発見だった。
 自転車に乗ると、歩く以上に腿に負担を感じるし、いろいろな不自然さを足腰に覚える。歩くということが、じつは負担感の少ない、スムーズな凄い移動手段だったと再発見させられている。
 バイクや自動車は、もちろん自転車のかたわらをすいすいと抜けていく。だが、自転車に乗っていて如実に感じるような足腰のあれだけの運動量をこなさずに、毎日をあれらの利器に乗って暮らすというのは、なんと怖ろしいことかと思う。身体というのは、脳と同様、ずいぶん平等にできているもので、ある運動量を回避すれば、その分の筋肉が減る。そうした筋肉の減少は、ある程度の年齢を越えれば、確実に衰えとなって発現してくることになる。

■第一三八号(二〇〇八年五月二十五日)
 出かける時には、なにかのために出かけるわけなので、そういう時に雨が降るとめんどうになる。いやだなあと思う。
 しかし、「なにかのために出かける」というのを取っ払ってしまえば、雨は風情にみちた景色になる。そういう景色のなかに、自分もひとつの風景として出かけていく。すなおにそう思える時には、生死の問題さえ解決してしまっている。
 雨を美しむのにも、年齢が要るのだろうか。ひと月ひと月、われわれは死んでいく。まだ今日は生きている、まだ今週は… 自然にそう思う目には、雨も美しい。

■第一三九号(二〇〇八年五月二十七日)
 はじめのうちは疲れるが、暑くなる日が少しずつ増えてくると、心身はハイ状態になってくる。夏こそ自分の季節なので、俄然、調子がよくなってくる。
 夏ほど、ふるい暦にしたがって生きるべき時はない。少し早めに季節感を生きること。八月の最後まで夏だ、などと思っていると失敗する。八月に入ったら、もう秋。そう思っているのが、いちばん季節を楽しめる。
 そろそろ、夏を味わうのに忙しくなる。

■第一四五号(二〇〇八年六月十六日)
 創作をする人々には、自分に遠い作風のものを受け入れない人が少なくないようだし、すっかり無視してしまう人たちさえいる。そこまでさっぱりした態度を採れれば、いっそ幸せなものだと思う。
 あれも、これも愉しい、見事だ、と受けとめてしまうところに僕の弱みはある。誰も僕になど関心を向けないが、僕のほうでは、時間と体力の許すかぎり、あらゆる人々のものを味わおうとしてしまう。読んだり考えたり書いたりということを長くやってくると、次第に、誰から出た言葉だろうが関係なくなってくる。
 書くことは自己顕示欲の最たる行為のひとつかもしれないが、詩歌の形式と絶えず擦りあわせながらこれを続けると、自己顕示欲など、けっこう早く底が抜ける。創作をしてきた人たちなら、だれもが経験しているだろう。自分など、ずいぶん希薄なものなのだ。この希薄な自分をレンズにして、世界や宇宙を見続ける。見続けたものが、未来の自分の内面になっていくのなら、とにかく外を、遠くを、近くを見続け、聞き続け、触れ続けるのがいちばんいいことだと思う。判断も批評も比較もいらない。見続ければ、数年後には、僕はさらに森になり、銀河になり、オリオン座になり、夕焼けになり、たえぬ雲の移り変わりになる。内面と外との関係には、無数の奇跡を可能にする秘密が詰まっていて、それを開いていくのが死ぬまでの持ち時間の最良の使い道なのだ。
 読むこと、書くこと、考えることのいちいちは、希薄なレンズの調整行為のようなものだろうと思う。

■第一四六号(二〇〇八年六月十七日)
 世田谷にはつくづく興味を失った、面白くない、と思いながら、たまたま住むことになった三軒茶屋に、まだいる。キャロットタワーという、そこそこ大きなビルから五分ぐらいのところに住んでいるが、こういう大きなビルが近所にあるのはけっこう便利なものだ。遠出した時は、これを目印にして歩いてくれば、まず間違いなく帰り着ける。二子玉川からも学芸大方面からも目黒からも、歩いて三軒茶屋まで帰りつけるのは、この目印のおかげだ。以前、表参道からのんびり歩いた時には四十五分ほどかかったが、やっぱりキャロットタワーは役に立った。下北沢と三軒茶屋を往復するのは、これはもう、日常茶飯事である。
 夜になると屋上に赤いランプが三つ点滅する。本を読んだり書いたりする部屋からは、座ったままで、東側の窓からそれらの赤い灯の点滅が見える。これを書いている今も、見えている。闇空に一定間隔で点滅する赤を、すぐ目の前に見られるのは悪くない。カフカの『城』の作中世界にいるような気もしてくるし、なにより『ドラキュラ』の城をそこに望んでいるような幻想にも飛べる。もともとサンテグジュペリの航空エッセーが好きなので、遠くや闇に点滅する明りには、めっぽう弱い。
 人生に対して、けっこう望みを抱かないタイプの人間なので、けっこう牢獄などでも生きていけるほうだと思うが(そういえば、大好きなデュマの『モンテ・クリスト伯』では、少年時代、ずいぶん牢獄生活と脱獄法の研究をしたものだ。バルザック世界でなら、なんといってもヴォートラン好きである。今ではなぜか詩歌に偏った感じの内面生活だが、十年にわたるバルザック狂いだったことは、そう易々と精神構造から抜けるものではない)、どんなつましい住居であれ、家からの眺望にどこかしら特徴がある、というのは大事だろうと思う。家から見える風景がよければ、それだけで生きていける。逆に、それがなければ、どんないい家でも、生きてはいけない。
 まだまだいろいろと引っ越すだろうと思うが、こんなぐあいなので、風景の確保だけは優先される。自分がいちばん時間を費やす部屋からなにが見えるか。それだけに、住居決定はかかっている。

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