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ARCH 72

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




『メモとかんがえ』集成 1
         [20080512・1〜20080515・3]


 二〇〇八年五月十二日から六月二十三日まで書き続けた『メモとかんがえ』は、日記でもなくエッセーでもない断片的な長短の散文を書きとめていく試みとして、なかなか意義のあるものだった。しかしながら、これらをここに纏めて集成とすることで、この試みはいちおう終結させたいと思う。
 書き続ける上で支障が生じたわけでもなく、試みの最中に枯渇が生じて頓挫したというわけでもない。ただ単に、自分にとってあまりに便利な形態が発見され発明されてしまったため、無際限に書き続け過ぎていくだろうことがわかったからである。約一ヶ月あまりの間、睡眠時間を大幅に削って多用なテーマについての書きつけが日常的となり、『メモとかんがえ』として配信した文書の数倍に達する前段階の文書が次々書かれ、さらにそれを上回る断片的なメモが書かれた。もとより「メモ」と銘打っていながらも、人に配信するとなればその時点での推敲も自己検閲もいちおう尽くされねばならないので、書き付けたものをそのまま配信するわけにはいかない。書くことに苦労はないが、無限に続くこうした作業の継続には限界がある。自分を自己意識のメモリアリストとしてのみ定義しているのならともかく、そういう定義を下支えする自意識を既にあまり持ち合わせない身としてみれば、テーマ的にも形態的にもあまりに開かれ過ぎたこうした試みには、早急に封印をしておくべきかと思われた。
 したがって、ある意味、強制的に中止し、この試みを封印するのだと言ってよいし、言っておきたいと思う。形態的に開かれ過ぎたエクリチュールは、書き手にとって危険である。詩歌や既成の散文の形態を使用することが、なんらかの理由から将来禁止されるような事態に立ち至りでもすれば、『メモとかんがえ』の形態の封印を躊躇なく解くべきであろうが、しかし、他の詩文の形態を完全に溶解しさるようなこの形態を日常的に続けるのは、まだ時期尚早であるとの思いがある。
                                   2008・07・06

■メモとかんがえ20080512・1(お知らせ)
[21世紀のカスパル・ハウザーとして]
 書き付けとも短文ともつかぬ、なんともかたちの定まらないメモを書いていくことにします。
 短歌ノートの『うたたね。』同様に、近未来の自分に向けて制作されるものですが、これをご覧になっているみなさんなら既にご存知のように、自我や個性や個人などといったものはそもそもからして存在しないのですから、近未来の宇宙的統合意識に向けて書かれると言ってなんの問題もないものと思っています。
 筆者は、すでに日本語で可能なさまざまな表現形式を試してきましたが、正直のところ、どの形式もそれぞれ高度の可能性に満ち満ちていると思っており、同時に、どの形式もそろそろ放棄されてもいいとも思え、さらには、やはり言語や表象を用いない精神運動の方向へ意識的に進行すべきだと思ってもいます。
 ここになされる記述はオーソドックスな表記によるものとなるはずですが、つねに意識を開放モードにしていくようなシャッフル力を持つ道具箱にしていきたく思っています。
 『ぽ』や『トロワテ』、『朱鳥』以来、すべての記述活動に共通していましたが、ここでも基本的な世界観としては、代議制と擬似民主主義と形式自由主義を柱に展開されてきた近代社会の完全な行き詰まりの時代イメージを抱き続けていきます。文芸の人々は往々にして忘れやすいようですが、批評や評論ばかりか、いかなる詩歌も小説もエッセーも、つねに、なんらかのイデオロギーに奉仕する文書でしかありえません。その点における自由は、かつて文芸の世界には存在したこともないし、言語はなんらかの思想的な統括によってのみ配列がなされていくものである以上、今後もあり得ようがないとの認識を以て、あらゆる記述を続けていくつもりです。文芸は広義の政治そのものであり、広義の政治以外のなにかであったことはありません。たとえば、この文は現代かなづかいの漢字かな混じり文で書かれていますが、『平家物語』以来のこの書法を未だに維持してしまう行為が既に強度にアイデアラジャイズドideologizedされたものです。文に句読点を使用するべきだと考えてしまうこと、現実にそれらを用いてしまうこと、これもやはりアイデアラジャイズドideologizedされていると自認しなければなりません。
 記述者である「私」は、人類の、また日本の現代の把握に努めようとしてきましたが、すでに対象は記述者の把握能力と把握可能性を途方もなく凌駕しており、もちろん、この対象を「対象」と見なすようなかたちの思考方法もすでに破綻していると承知しています。こういう状況下において、ある種の形式記述(文芸形式を用いた記述法)によってなんらかの奇跡が呼び込めるのではないかとの期待(ロマン主義的なこうした「期待」は、むろん方法的反省をつねに伴われつつ、意図的に演じられてきたのでした)を抱いて、ほぼ30年かけて、あたかも未だに1930年代にいるかのように「超克」へむけて(個人の内面は、つねに様々な歴史段階を無造作に束ねて変貌し続けるものです)、叙事詩、自由詩、定型詩、短歌、文章、物語、小説などを試し続けてきましたが、いまや、こうした試みは完全に無意味に終わったと認めるべきだと考えています。この観点から、素朴なノートへ、メモへ、そして思想や思考ではない「かんがえ」へと戻るところに、この『メモとかんがえ』が発生してくる契機があると、とりあえずはご理解ください。
 記述者「私」はこれまで(どなたもそうであるように)、日常的な無視や数え切れない侮蔑を被ってきましたが、今回の『メモとかんがえ』の開始にあたっても、当然ながら同様の扱いをされるものと予想しています。これを不服となどするものでは全くなく、これはまさに記述者の愚鈍な脳にとって相応しいことでもあれば、こうした愚鈍な脳に対して知人たちや世間が採り得る正しい対処法でもあると考えています。
 しかし、人一倍あたまの悪い者、誰にもまして思考力も劣り、言語表現においてなんの才能も持たない哀れな脳を持つ者が、新たな『社会契約論』を待っている現代世界の混沌の中にカスパル・ハウザーのように放り出された際、現状把握やかんがえを他人に任せるばかりでただ手をこまねいて死んでいくのを待つか、そうでなく、少しは「かんがえ」ようとしつつ死んでいくのかを選ばねばならなくなった場合、やはり後者を選んで死んでいこうとしてしまうものらしい、おそらくは脳の自然な反応の表われとして、というふうに受け取っていただければ、記述者「私」の愚行はそう理解しづらいものでもないのではないかと思われます。

■メモとかんがえ20080512・2(序文のかわりに)
 なにか備忘録的なメモをつけたいと思っていたのだが、日記というものに価値があるとは思えないし、ヴァレリーのようなかたちのカイエ(ノート)、カミュのようなかたちでのカルネ(手帖)をつけるというのも、ちょっと身の丈にあわない。もともと、冗談と、バイロンやシェリーふうの古色蒼然たるわざとらしいロマンチスム気取りとが染み込んだ性格なので(と記す以上、すでにロマンティシズムに途方もない距離をとっているということではあるけれど。…フローベールのように?)、生真面目いっぽうの日録になっては困るし、なるはずもない。あれこれ思い出すうち、内容の雑駁さ、わからなさを平然と包含してしまう点では、『アンリ・ブリュラールの生涯』など模範的にも思え、カザノバもいいし、わが師シャトーブリアンの回想録もなかなかいい、ポール・レオトーの『文学日記』ふうなんかもいいだろうと感じるが、やはり、もう少し軽いメモ帳にしたいものだと思った。そうなってくると、本邦の『枕草子』や『徒然草』などはグッと身近に感じられてくるし、ちょっと理屈っぽいことを言いたい時には『玉勝間』という流れもある。
 そんなこんなを思ううちに、数年は過ぎてしまった。昨年あたりから、また考えはじめていて、もう模範を求める必要もない時期にさしかかったと思い、生真面目な考察から冗談やナンセンスな書付けまでを含む振幅の広いメモをつけようということに決めるまでに至った。
 タイトルはどうしようかと、これまた迷いに迷った。かっこよ過ぎるのを付けたり、漢語ふうの勝ったのや欧米ふうの勝ったのを付けると、だらだら書いてモンテーニュしたい時などに支障が生じる。ようやく、「メモとかんがえ」というのに決めたわけだが、ここに至るまでにも「かんがえとメモ」とか「メモとちょこっとのかんがえ」とか、いろいろと惑い続けた。備忘録のようなもののタイトルは本当に大切で、軽くて、魅力のないものを心して選んでおかないと、後でかならず形骸化する。思考はただでさえ、形式に固着しようとしやすいものなのだ。「メモとかんがえ」というのは、なかなかいいと思えた。「かんがえとメモ」のほうが語呂はいいが、この記録は「メモ」のほうに重きを置いていて、「かんがえ」はあくまで「メモ」を浮き立たせるための照明道具程度にしか使わないつもりなので、やはり採用はできなかった。
 これは、なにより第一に、自分にむけた「メモ」なので、グーグルに専用に用意した自分のメールボックスに送信するのを最優先する。これまでの詩葉メール便も、短歌メールも、すべて専用ボックスをグーグルに作ってそこに送信してきたが、それと同じ作業を軸とすることになる。じつは数十のメールボックスをグーグルばかりか方々に作ってあって、内容ごとに分けてあちこちに保存することにしているが、これは知り合いの工学部の先生のだいぶ以前からの助言に従ったものだった。
 CD―ROMやDVDは便利なようでも、たぶん十年も持ちませんよ、というのがこの先生の年来の意見だが、最近、この限界説はようやく一般に認知されてきたようだ。ついでに言い添えておけば、彼がかなり前から言い続けてきていることに携帯電話の危険というのもあって、断じて、耳に直接つけたりして携帯電話を使ってはいけない、電子レンジで脳を焼くのと同じだから、という。携帯電話については電波の強さを野放しにしているのは商売一〇〇l優先の日本だけで、そう遠くないうちにこれまでにない規模での脳障害が発生しかねないと彼は言う。本人は、いつもイヤホンをつけてしか携帯電話を使わない。あまりに徹底してそうしているので、そんなに危険ですか?とよく聞き直すが、ええ危険です、どんな障害が本当に出てくるか、出てこないか、この国をあげての一大実験中みたいなもんです、という。
 こういう生活状況の中で、こんな「メモ」をあれこれ執りながらの『メモとかんがえ』なのである。

■メモとかんがえ20080513
 ミャンマーのサイクロン災害も中国四川省地震災害も痛ましい。痛ましい、と書くと、よそよそしく響くかもしれないが、どちらも、いつ東京で起こってもおかしくないと知って書いているので、よそよそしい気持ちから発する「痛ましい」なのではない。比較的小さいことながら、こんな言葉ひとつ使うのにも、表現の問題から逃れて使うことはできない。
 しかし、とにかくも「痛ましい」と発言し、記しておくべき事柄というものはあり、とりあえず自分が巻き込まれなかった災害というのは明らかにその範疇に属する。現代社会は小賢しくなって、同情を嫌ったり軽蔑するようになったが、市井のおばさんのようにシンプルに、「まあ、かわいそうに」、「ああ、痛ましい」と言葉を洩らしてしまうべき場合はある。そういう点において、時代遅れの人間であろうとし続けること、素朴で感情的な面をしっかり維持すること。感情も表わさぬ、クールな理性的な現代人なるものへの傾きを、私の心から追放し続けること。
 藤原新也の『全東洋街道』に掲載されていたトルコの娼婦の言葉を思い出す。「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」。
 そう、「気持ちいっぱい」を目指さずにして、なんの地球滞在だろうか。
 「人間」は、ひとりの心の中で滅亡しもすれば、甦りもする。

   耐震建築のされていなかった学校の倒壊で、多くの子供たちが生き埋めになっていると聞いても、世界のだれも何もできない。援助物資や資金の提供はこれからできるし、救援隊の派遣もできる。しかし、今、もっとも救うべき人々に対しては、外国も人間も現地の人間もなにもできない。まさしく今、この今、なにもできない。災害には、こういうことが頻繁に起こる。できることといったら、十分でない数の重機を使いながらの手作業で、現地の人々が瓦礫を少しずつ除いていくぐらいのことだろうし、離れたところにいる人々にできるのは、おそらく、祈ることぐらいだろう。
 手作業や祈りが、ほとんど命の救いにならないだろうことは、だれにもわかる。しかし、本当に、それらの行為はなにも救わないだろうか。とりわけ、祈りは、本当になにも救わないだろうか。
 祈りについては、なにを救うのか、なにをなしうるのかと問うより、なにも救わないだろうか、なにもなしえないだろうか、と問うたほうがふさわしい。そういう問いの変換を行うべき対象や行為がある。
 こうした点で、キルケゴールに学び続ける。『反復』の思考法も目覚しいものだが、『死にいたる病』はいっそうの力で、私の誤った思考法をくりかえし壊し続けてくる。
「『この病は死にいたらず』。けれども、ラザロは死んだ。弟子たちが、キリストがあとから付け加えて言ったことば、『われらの友ラザロ眠れり、されどわれ呼び起こさんために往くなり』ということばを誤解したとき、キリストは弟子たちに率直に言った、『ラザロは死にたり』。かくしてラザロは死んだ、けれども、この病は死にいたらなかった。つまり、ラザロは死んでしまっていた、けれども、この病は死にいたらないのである」(枡田啓三郎訳)。
 ラザロの状態についての弟子たちの認識が、ラザロの生死を左右する。キリストはそういうレベルの生死を問題にしているのだが、現代の人間の多くが首をひねるであろうこの書き方にキルケゴールの力がある。ここに、キルケゴールを通りつつ、初めて経験しうるひとつの正しい考え方がある。

■メモとかんがえ20080515・1
 小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が最近よく売れているという(日本経済新聞、5月14日夕刊)。毎年五千部増刷するそうだが、今年はすでに五万七千部が出ている。新潮社営業部の課長の分析では「偽装請負や所得格差が問題になるなか、労働者の過酷な現実を描いた内容に注目が集まっている」ため。上野駅構内の大型書店(ディラ上野だろうか?)が仕掛け販売を展開したら、大当たりしたというのも理由のひとつらしい。販促の定番アイテムである帯をつかわず、「初版本を再現した朱色と黒のコントラストがおどろおどろしい」カバー表紙で直球勝負をしているところも功を奏した一因らしい。
 読者というのは、現代でも、案外と素朴に、自分や時代のテーマを扱っているものを嗅ぎつけて買うものなのかな、と思わされる。この本のように、さほどの大々的な広告をしなくても、読者に媚を売らずとも、おのずと売れていく商品というものはちゃんとある。
 本は売れない、なにを書いても売れない、どんな分野のものも売れない、という話を年中聞かされるが、そういうことを言っている当事者たちというのは、自分がトレンドの主流にいると妄想していたり、まともな社会観察や批評の能力が備わっていると盲信していたりする人々が多い。彼らを、今いる地位から追放しさえすれば、それだけでもっとうまく行くようになる会社、商売、部署、学校はいっぱいある。
■メモとかんがえ20080515・2
 連休、すなわち、時間、労力、気配りの浪費。もちろん、なんらかの小市民的欲望を現実化・物質化したい人々にとって。家族主義者にとって。人間関係の新規構築や更新をもくろむ人々にとって。
 独身者、シニスト、知的優越を第一義とする幼い心の者たちは、異人種たちによって行われるこうした連休中の愚行を笑う。彼らの冷笑もまた、一段上の審級においては笑われるべき愚行である。
 連休中の塵労が、当該社会体制を支えるべく強いられている労働者たち個々の(かつて吉本隆明はOLのことを低所得女性労働者と呼んだが、そうした認識力を失わないために「労働者」という用語を使い続けるのは今なお意義がある)世界観を大なり小なり、また否応なく拡大させることを忘れるわけにはいかない。無意味な疲労と非効率、不慣れな世界への踏み込みを極力巧妙に避けつつ営まれる日頃の働き蟻としての生活、目覆いをされた馬車馬の一方向への運動からの踏みはずしの機会。この一点から見直すだけでも、大衆社会における連休中の非効率と疲労は、精神的異世界への豊かな冒険そのものとして映ることになる。
■メモとかんがえ20080515・3
 デヴィット・セルツァーの『オーメン』は小説としては物足りない。エンタティメント、ホラー、一九七六年の作品。もちろん、これらの属性に免じて、目をつぶっておけば済む欠点ではあるが。
 この小説において注目されるべきは、現時点から見れば穏当すぎるホラー性や説得力にいささか欠く悪魔側の活動事情などではなく、悪魔の子デミアンを育てることになるアメリカの駐英大使ジェレミー・ソーンと妻キャサリンの性生活への言及が忘れられていない点である。
 ソーン夫婦の「かつてはお互いの関係の中心だった性生活」は、幸福だった一度目の妊娠の際の流産の後、変質を強いられる。二度目の妊娠を成就させようと望む彼ら夫婦に、産科医は、ふたりが「いっしょにいることがむずかしい特定の日時に性行為をするようにと命令」し、ソーンは「何ヶ月ものあいだ、機械的な歓びのない行為のためにオフィスから帰宅」したりする。「しかも自慰まですすめられた。精液を採取して人工的に妻の膣内に注入できるというわけだった」。
 デミアン(もちろん実子ではなく、この子供がソーン家の息子となる経緯は小説の中心をなすが、ここでは触れない)を得てからは、悪魔から遣わされてきたミセズ・ベイロックが乳母として巧妙に家庭に入り込み、キャサリンは少しずつ息子から引き離されていく。
 いずれは大統領になると目されている大富豪の大使の妻、豪壮な大邸宅の女主人でありながら、子供を自らの手で守り良き友になるのが母たるものと信じて成長してきたキャサリンには、乳母によって息子との関係が妨害されるのはつらい。しかし、大物政治家の夫を支えるのこそ第一義とのもっともらしい理屈をつけ、デミアンを一手に引き受けて、なしくずしに奪い取っていくミセズ・ベイロックには抗しようもない。彼女は内向する一方の憤懣を「朝は慈善事業関係のこと。午後は政治的な関係のティー・パーティー」などへと差し向け、いかにも政治家の妻らしく、また女主人らしく、エネルギッシュな「雌ライオン」たるべく行動するようになっていく。ソーン自身が夫として望んでいた「理想の妻」となったわけで、彼は「妻の個性の突然の変化にいささかとまどっていたが、妻のありかたに不満はな」い。
 ここでも次のような記述を忘れないのが、『オーメン』の注目されるべきところであり、可能性の在り処でもある。
「性行為でさえ変化を見せ、前よりも大胆で情熱的な刺激を求めるようになった。ソーンは、それが性の欲望からではなく、一種の絶望の表現であることに気づかなかった」。
 ホラーエンタティメントを目指したがために、『オーメン』は、大使夫婦の性生活クロニクルとしては展開の不十分な作品として終わってしまっているものの、小説としての可能性はまさにこの点にこそある。

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