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ARCH 75

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




『メモとかんがえ』集成 4
           [20080606〜20080608・5]


■メモとかんがえ20080606
[大手貸しヴィデオ・DVD業者の更新手数料]
 ヴィデオやDVDを借りることがあるので十年以上前からある大手貸しヴィデオ・DVD業者の会員になっているが、毎年、会員更新というのがある。新たなカードをくれるわけでもないのに手続き費用として三〇〇円をとられる。
 毎年、これについて文句を言う。バイトばかりの店員に言っても仕方がないのだが、この三〇〇円はどういう用途のために取られるのかと、かなり毒づくことがある。今どき、あらゆる事務手続きを無料でやってくれるカードが溢れているというのに、この大手貸しヴィデオ・DVD業者の更新手数料の三〇〇円は高すぎる。カードの裏面に期限延長の細いシールを貼るだけの作業で三〇〇円も取られてはかなわない。シール材料費とあれを貼る店員の手数料として三〇〇円を払わされるとすれば、客をずいぶん馬鹿にしているという他ない。
 IRによれば、この大手貸しヴィデオ・DVD業者は二〇〇七年三月時点で、男女合計2022万人の会員を擁し、これは国民の15・8パーセントにあたる。会員1人あたり三〇〇円という理由のない更新費用は、毎年6、066、000,000円に上る濡れ手で粟の利益を発生させている計算になる。更新費用という名目で三〇〇円を請求され、この企業に濡れ手で粟の6、066、000,000円を毎年儲けさせているのだから、日本の客たちは本当にお人よしだということになろう。

 更新の際に提示する「本人確認書類」というのにも、いろいろと考えさせられる。
 文面を以下にそのまま引用したいが、無断転載は禁じるという但し書きがメールにあるので要点だけを掲げると、「ひとつだけで有効な」書類として、「運転免許証」、顔写真付きの「障害者手帳」、やはり顔写真付きの「福祉・生活保護に関する証明書」、「外国人登録証明書」、顔写真付きで生年月日・氏名・住所の記載された「住民基本台帳カードBバージョン」、現住所が記載されており顔写真付きの「その他自治体が発行する証明書(市民証など)」とある。
 また、「住所確認書類」もあわせて提示しなければならないものとして、「健康保険証」、「健康保険証カード」、顔写真のない「障害者手帳」、顔写真なしの「福祉・生活保護に関する証明書」、顔写真付きの「学生証」、会社住所記載のある「社員証」、「顔写真」、「公務員身分証明書」、「年金手帳各種」、有効期限内で現住所記載のある「パスポート」などとなっている。
 そして、これらとあわせて提示しなければならない「住所確認書類」は、「いずれも発行から3ヵ月以内のもの」とされた上で、「住民票の写し」「公共料金の支払領収書(住所記載のもの)」「国税または地方税の領収書または納税証明書」「社会保険の領収書?」などとなっている。
 公共機関の求めなら誰も文句を言わないだろうが、たかがヴィデオやDVDの賃貸業者に、どうしてここまでの書類の提示を求められる必要があるのか、と思ってしまう。「貸し出し商品の保護上の問題があるので、よろしくご理解ご協力をお願いします」とでも下手に出てくれば別だが、どうして、なかなか大きく出てくるじゃないの、アンタ、と思う。居丈高な書き方は、ほとんど滑稽の域に達しているといえるだろう。それほど高額の品物を貸し出しているわけでもないのだ。昔なら貸本屋に過ぎない。ヴィデオやDVDを返さない客がいるから身元を幾重にも押さえておく必要もあろう、などと好意的に納得してしまってはいけない。一回の貸し出し本数に制限を設けておけば損害は容易に抑えられるのだ。
 この大手貸しヴィデオ・DVD業者は現在、貸し出し本数の上限を定めていないようなので、多量に借り出された商品が持ち逃げされる可能性というものはありうる。映画科の学生などが研究用に借りる場合などが想定されるが、そうした場合でも、せいぜい数十本のレンタルに収まるだろう。それを仮に持ち逃げされたとしよう。DVD一本が五〇〇〇円程度の高額商品だとした場合でも、損害は五万円から二〇万円程度に収まる。一本一万円程度なら、一〇万円から四〇万円の損害か。一見大きな損害に見えるが、会社は盗難や各種の損害のための保険に入っているはずだから(入っていなければ、企業態度そのものが不可解だとなる)、容易に補填される仕組みになっている。しかも、客一人宛のこれほどの損害はそう頻繁に発生しないはずなので、損害可能性の規模はもっと縮小して考える必要がある。

   「本人確認」なる表現もどうかと思う。
 返却の遅延などの連絡のための住所確認をするのは理解できるとしても、ヴィデオ・DVD貸出業者にとって、社会的身元確認としての「本人確認」などはそもそもどうでもよいはずである。貸し出しをし、その際に料金請求をし、後にちゃんと返却してもらう。この過程さえ守られればよいわけで、過程を守るのが「本人」であれ「別人」であれかまわないはずなのだ。貸し出し時の入金と商品返却の徹底だけがこの大手貸しヴィデオ・DVD業者型業態の軸であり、死守すべき点である。ここでの「本人確認」などという言葉は、注意しないと見逃しやすいが、民間のヴィデオ・DVD貸出業者などに使わせておいてよいものではない。誤使用というべきだ。
 もう一度確認するが、この大手貸しヴィデオ・DVD業者型業態においては、借り出し人Aと返却人Bが同一でA=Bでさえあればよい。さらに言えば、借り出し人Aが借り出した商品が、Aの名において返却されればそれだけで十分なのであって、借り出し時にコンピューターと貸し出し証に記録されるAの名が、返却時、商品とともにふたたび確認されればよいのである。ここでは、なんら、社会的な身元を意味するような「本人確認」は必要とされていない。@商品、A借り出し時にコンピューター登録されるAの名、B貸し出し証に記録されるAの名、これらの3つを貸し出し時と返却時において重ね合わせることがこの大手貸しヴィデオ・DVD業者型商売で必要とされる確認作業である。
 もちろん、商品返却が保証されるような人物かどうかを「確認」する必要があり、そのために各種証明書の提示を求めているのだ、と業者側は言うかもしれない。それについては、商売上の必要ということで認めることにしよう。しかし、それは人物査定や人物評価、ないしは借り出し資格判定と呼ぶべきものなのだから、正しくそのように呼び、更新連絡メールやハガキに記してきたらいい。たかが貸しヴィデオ屋がなにをいうか、との批難を多く受けることになろうが、「本人確認」などという言葉を、誤った場所で平然と誤って使うのよりは、長い目で見れば企業イメージを上げていくことになろう。

   先に述べた、更新の際の業者への提示書類は、すべてコピーを取られることになっている。この業者はホームページで、個人情報を守ると謳っているから、一応問題はないはずだろうし、情報漏洩の際にも責任を取ることになっているのだろう。しかし、客としては、住所や連絡先などについてのみコピーされるのならまだしも、それ以外の個人情報を確実に含む書類をコピーされるのはやはり不安だし、不快でもある。いかに会社が情報保護を謳っていても、現場で働いているのがアルバイトばかりであれば、各種の情報業者などへの横流しの可能性をどうしても考えてしまう。現に、方々の信頼されるに足ると見えていた企業で情報の流出は発生し続けているのだ。客の住所や連絡先を業者が把握する権利はあるにせよ、それ以外の個人情報の一切については、これを要求する権利は全く認められないという点が、奇妙に忘れられてしまっていると思える。「運転免許証」の住所をコピーする必要はあっても、同面記載の番号をコピーする権利はあるのだろうか。ましてや「障害者手帳」や「福祉・生活保護に関する証明書」にいたっては、はたしてどこまで、デリケートな注意深い扱いを保証してくれるのだろうか。
 この大手貸しヴィデオ・DVD業者型業態において、客側からのこうした不安や不満が出ないようにするには、預かり金を徴収する仕組みを定めればよいのではないかとも思う。五〇〇〇円程度を預かるようにすればよいだろうが、それで高く見えるようならば二〇〇〇円ほどで十分だろう。最初の会員登録の時点で、この預かり金を要求する。これはあくまで保証金なので、脱退の際には返却することとする。愚かな客は、数千円単位の預かり金を払うより身元証明書のコピーを取られるほうを望むかもしれないが、自分の些細に見える情報が、業者たちにどれほどの利益を落とす可能性を与えることになっているかを思えば、納得できないことはないだろう。人間の余剰価値部分を商売領域としているこの大手貸しヴィデオ・DVD業者型企業の場合、把握する客の個人情報を最小限にするために預かり金制度を採用すると宣言し、集めた金は投資にまわすようにしたほうが、企業イメージをワンランクアップさせるのにも役立つのではないかと思う。
 経営の専門家には一笑に付されるような案に過ぎないだろうか。毎年三〇〇円程度の更新料を払うほうが、たとえ個人情報を無料で引き渡すのであれ、数千円の預かり金を支払うよりよっぽど得だと思うような客をこそ、顧客の中心に据えていくのが、貸しヴィデオ・DVD業にはふさわしい経営手法と考えるべきなのだろうか。

■メモとかんがえ20080608・1
[白楽天]
 白楽天(白居易)は五十八歳で子供を儲けている。八二九年頃の中国男子としては旺盛といえるのか。しかし、この時の子阿崔は、二年後に数え年三歳で死んだ。彼の子は、四十五歳の時の女児阿羅を除いて、みな夭折している。
 自分の作品保存への執念が、ここから来たと多くの解説は推測する。七十四歳で白氏文集七十五巻を完成し、これを五本作り、盧山、蘇州、洛陽の三寺に納めた。これらの寺には、文集が六〇巻から六十七巻の頃にすでに納めた経緯があるので、完成したものに取り替えたのだろうという。現在でも七十一巻が残っている。生前から日本にも写本が買い求められ、白楽天自身、それを誇りとした。李白、杜甫以上の圧倒的な影響力を日本文学に与えたのは言うまでもない。

■メモとかんがえ20080608・2
[文芸翻訳]
 文芸作品を翻訳しようとする者は、一字一句をその時代の母国語の慣用に沿って正確に訳そうと望みがちになる。もしそれが可能ならば、そうするのは悪くない。しかし、「それが可能」とは、どのような条件下においてか。彼が、母国語における自分の文体をすでに醸成し終えているという条件下においてである。
 訳者にはっきりとした自分の文体がない場合、文芸作品の翻訳は自他に悪い影響をもたらす。彼は、むしろ意図的な翻案や模倣を行ってでも、自分の文体を実現しようとすべきである。原作と異なる場所がいくらあってもよい。ストーリーが違ってしまっていてもよい。それでも、彼が意図すべきことは第一に、自分の言語配置や表現スタイルを貫き通すことだ。
 文芸作品を映画化する場合に、多くの映画監督は原作を裏切る。そこまで歴然としていなくても、省略、変更、構造破壊、なかったものの付け加えなどは当然のこととして行われる。言語作品と映像作品の差が、幸運にも彼らを錯誤に陥らせないためだ。原作中でのある人物の自殺は、映画中では失意の末の引退に変更したほうが、よほど原作に近い映画的効果を作り出せる場合が無数にある。そういう場所で、躊躇なく変更してしまえることが、芸術制作者の条件である。
 翻訳は、言語作品という点では同じであるため、原作に不用意に忠実であろうとする過ちを受け入れがちになる。翻訳はしかし、ひとつの演奏なのであり、演奏である以上、その場に鳴らす音響のみで聴衆を納得させ、感動させなければならない。一定時間、あるスタイルで演奏が貫かれなければならない。原作者が書いた楽譜を見直すかどうかは、その演奏を聴いた後に聴衆に任せればよい。

■メモとかんがえ20080608・3
[ボヴァリー夫人]
『ボヴァリー夫人』をなかなか読み通せない知人がいた。本を読むのは嫌いではないが、あの小説は途中でつまらなくなる。シャルル・ボヴァリーがエンマと結婚してからしばらくすると、俄然、つまらなくなる。エンマの浮気の話が、とにかくつまらない。だいたい、魅力的な女には、どうも感じられない。あんな女の話、どうでもいいではないかと感じてしまう。
 聞いていて、ははん、と思い、夫シャルル・ボヴァリーの話を中心にして、その後の流れを話してやった。エンマの浮気話の詳細はシャルルには最後までわからないのだから、そこは一切省略してしまう。シャルルの、純朴で生真面目でぎこちない意識と生き方を抽出して、大団円までをさっと語る。彼は大いに興味を示し、それは面白い、つまらないところは我慢して、とにかく読み終えようと言った。
 けっこう多くの人が、『ボヴァリー夫人』において、シャルル・ボヴァリーにこそ愛着を感じている。彼についてこそ多く読みたく思う。もちろんフローベールの意図は、読者がシャルルの物語を容易に直接的に読めてしまうことの快楽をあえてじらすところにあり、シャルルを外殻に据えることで、複数の小説素間の交響度を最高度に高めようとした。しかし、フローベールほど小説学に没入したわけでもない後代の読者には、交響曲をピアノソロに編曲して演奏したかのような、『シャルル・ボヴァリーという男』や『ある男の田舎医者としての生涯』というレシやコントを、まず与えてみて悪いこともない。十九世紀なかばの小説にすでに難渋してしまうような種類の読者に対しては、シャルルはつまりはルイ16世なのであり、『ボヴァリー夫人』は、じつはマリー・アントワネット伝なのだと種明かししてしまってもいいぐらいだろう。マリー・アントワネット伝を読んでだれもが思うのは、ルイ十六世が普通の市井の男として生れてさえいれば、地味ながらももっと幸せに生涯を終えられたであろうに、ということだが、『ボヴァリー夫人』が書かれたことによって、そんな考えもどうやらむなしい、と思い至ることになった。市井の男として生れても、ルイ十六世はそれなりに不幸である他なかっただろう。逆に、もしシャルルに幾許かの幸福があったのだとすれば、ルイ十六世にもあのままで幾許かの幸福はあったということになろう。

  ■メモとかんがえ20080608・4
[作品体]
 すでに五〇〇冊を上梓したという赤川次郎氏の知人筋から聞いたが、氏は毎日十二時間はこつこつと書き、ときおりオペラを愉しむぐらいの贅沢の他は、これといった特別な派手な遊びもしないという。パソコンで書くようなことはせず、原稿はいまでも紙に書くが、書き損じたものを捨てるようなことはせず、紙をまったく無駄にしないように細かな字でみっしり書いていくのだという。書き損じ原稿や広告の裏に原稿を書いたという松本清張や、中上健次のあの細かな字でぎっしり書かれた原稿が思い出される。ル・クレジオも、かつてはそうではなかったか。作家によっては、書く最初から、原稿をオブジェ化する秘訣を知っている人たちがいる。小さな字でぎっしりと埋めていき、書き損じは消し、その上にまた書き直していく。つまり中世ヨーロッパまでの羊皮紙のように原稿紙を扱い、その作業によって、作品が印刷・販売されるはるか以前に、書かれている時点ではやくも価値ある何物かにしていく。パランプセスト。これによって、作家自身が、来るべき作品の不可視の器、すなわち文体、いや、もっと正確には作品体を受胎し続けるのだ。
 この点における現代の問題は、パソコン書きで、いかにこうした受胎が可能になるか、その手ぶりはどのようなものかということである。キーボードを叩きながら、即、作品体が成長していくようにするには、どのように書けばいいのか、ということ。

■メモとかんがえ20080608・5
[一般意思論]
 ルソーの一般意思は、それについて考えたり、『社会契約論』を読めば読むほど曖昧に見えまさるものだが、もちろん、あの曖昧さによってこそ、一般意思論は力を持つ。日本人ならば、思い切ってこういう補助線を引いてみてもいいだろう。一般意思とは、天皇なきヨーロッパにおける天皇制であり、知的な理論構成において、また社会構造創出において、空虚にして曖昧、かつ充溢したエネルギー場を中心に据えようとした試みであった、と。

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