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ARCH 76

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




『メモとかんがえ』集成 5
           [20080612〜20080613・5]


■メモとかんがえ20080612
[秋葉原無差別殺傷事件について]

 秋葉原無差別殺傷事件。
 すなわち、日本における一人称複数の消滅。
 この事件は現代の日本人にとって、他の犯罪とは比較にならないほど、深くイヤな事件と受けとめられていくようになるだろう。日本人というまとまり、同一共同体に属する「我ら」であることの幻想の虚偽が、敗者の側からの宣戦布告によって、ついにはっきり突きつけられ始めたといえる。居住地域、職場、商業施設、公共施設などに、すでに「我ら」は存在しない。職業、地位、収入などにおける違いが、すでに、そのまま「敵」を意味する社会状態になっていたのを、今回の事件は突きつけてくる。

 被疑者加藤智大の特徴は、時代の毒に対して敏感すぎるということだろう。彼の個人的な感情傾向や思い込みも、現代日本の毒素を高濃度で吸収して拡大して表現してみせる役割を担った。毒素に対して他の人間よりも過敏であったため、より早い大きな反応を示した。普通の人間なら毒を緩和する機能を精神のどこかに持っており、それが自ずと毒を散らし、過激な行動に走らせないようにする。そうした解毒機能や緩衝材となるものの持ち合わせが少なかったところに、彼の犯罪の直接理由がある。犯罪者の多くにこれは共通しており、純粋であり過ぎ、敏感であり過ぎる内面を持ったことから悲劇は来る。普通の人間が曖昧に未解決に済ましていってしまう事柄に、彼らは明瞭すぎる早急な決定的解決を望む。
 そのため、多くの犯罪者が時代のカナリア役を担うことになる。加藤智大の場合は、他の犯罪以上に重要な試験紙となるだろう。

 こんな言葉が背景に響いているように感じる。
「だからみんな死んでしまえばいいのに」
「私が死んでも代わりはいるもの」
 被疑者加藤智大、二十五歳。土浦通り魔事件の金川真大、二十四歳。
 一九九五年の『エヴァンゲリオン』放映時には、彼らは12歳や11歳だった(一九九五年は、地下鉄サリン事件の年でもある)。劇場版公開を前にしての再放送時には、彼らは碇シンジのように十四歳前後だった。

 十日、被疑者加藤智大の両親が健気にもマスコミの前に立った。父親が謝罪を含む発言をしていた。母親は途中で立っていられなくなり、倒れ込んだ。やがて膝を折って座り直したが、体を激しく震わせており、腕にそれが顕著に見られた。
 誰も彼女を抱き起こす者はいなかった。近くに寄って支える者もいなかった。今の日本とはどのようなものかが、巧まずして鮮明に映し出された数分間だった。
 彼らは犯罪者ではなく、すでに成人している被疑者の両親であるに過ぎない。息子の犯罪を擁護しているわけでもない。ふいにあのような立場に陥らされた両親の心境は、誰にも容易に想像がつくだろう。倒れ込み、あれほど体を震わせるほどの緊張状態に置いておくのは、身体的に危険でさえある。にもかかわらず、誰ひとり駆け寄ろうともしない。
 被疑者加藤智大は、おそらく社会のこうした面に敏感であっただろう。彼の心は、こうした面を蓄積し続けたに違いない。
 耐震偽造事件の姉歯秀次被告の妻の自殺が思い出される。

 秋葉原無差別殺傷事件の重大さは、殆どの非正規被雇用者にとって、被疑者加藤智大がサイトに書き込んでいた現実認識、自己認識、感情、感想が、どれも正確≠ナブレていないと感じられる点にある。非正規被雇用者ならば、仕事に関して彼が書きつけた感想や感情を共有しない者はいないだろう。むしろ、あまりに穏当な書き込みに過ぎないとさえ、非正規被雇用者たちは考えるに違いない。彼らの殆どは無差別殺人など行わないし、考えさえしない。しかし意識の底で、今の日本社会への決定的な鉄槌を下すのを誰もが模索している。
 加藤智大の行ったのは非道な犯罪であり、弁護の余地はない。しかし、彼の被雇用者認識は完全に正しい。こう受けとめる静かな分厚い階層が存在する。今回の事件は、非正規被雇用者の2・26事件である。前兆であり、社会の陥没はこれから激化する。

 誰にも自意識があり、自己顕示欲がある。それらを刺激することで情報や娯楽に関わる業界が発展してきている以上、現代では、それらが穏やかになることはなく、過激化、奇矯化する一方である。国民の数だけそれがあり、日本列島に蠢いている。
 過敏だったとはいえ、加藤智大の自意識や自己顕示欲が並外れて巨大だったとは思われない。にもかかわらず、あのように内面が追い込まれた結果、暴発するに至った。
 彼以上の危険域に達している意識たちが無数に存在するのを考えておかなければならない。そうした意識たちは、多くの場合、加藤智大よりも知的能力において勝っており、したがって自己抑制や忍耐がなされている。
 だからこそ、加藤智大以上の破壊を齎すべく図っていると考えるべきだろう。

 人生はかつて何物かであったように遠望されるが、すでに現代ではゲームでしかない。特殊なこだわりを持つ人々(オタク、専門人、趣味人ら)のみが、なおもゲーム度を薄めて生きうる。
 この場合のゲームとは、どれだけ安・楽を現在未来において(現在から未来にむけて)保持するかというゲームである。しかも、これは、刹那的世界観から来る浅い認識のゲームではない。命と心身の壊れやすさ、社会、国家(共同体)、歴史のむなしさ(個への見返りの少なさ)へのまっとうな認識から来る必然的最終的なゲームである。
 個が労苦を引き受けうるのは、世界が物・非物を与え返す場合のみである。
 非物=名、歴史化、名誉、感謝など。
 超大衆社会では、しかし、社会や制度による正式な見返りの得られる競争率は高すぎる。レース開始においてすでに、個人資源(親からの金品・不動産・社会的地位、身体的精神的特性などの才能)において優位に立つ必要さえある。
 まともな生活計算力を持つ個はここで物に向かうが、物レースもむろん競争率が高く、個人資源の多寡がものをいう。
 ここで、非物、物をともに超克する跳躍への賭けの瞬間が来る。
 犯罪、革命、芸術的刷新、パラダイム転換による起業など。
 この際の選択肢のひとつに、名と歴史化の獲得にむけての事件の企画がある。知力と忍耐力に欠きながら自己顕示欲ばかり大きい者が、名と歴史化への欲求を形式的に満足させる行為としてこれを選ぶだろう。自意識と自己顕示欲が盛んで、しかも生活と内面生活において縮小や消滅に追い込まれた時、これらは痙攣的な暴発に向かい始める。大衆の海への没入からなんとしでも浮上しようと、こうした自意識は努める。自分を大衆の海に沈め込むようなゲームばかりを強いてくる社会に対し、意趣返しを行おうとする。自意識と自己顕示欲にとっては、これはまさに、命がけの跳躍である。

 個性を強いつつ、徹底的に奪個性の大衆海へと個を沈め、漬け込む超大衆社会においては(たとえばドリカムの巨大コンサートの中での個人とはなにか、想起せよ。ナチス大会の中の個人と、なにか違いがあるとでもいうのか?)、1%の個性獲得者に対して99%の敗北した自意識たちが発生する。1%の成功個性を個性たらしめる制度そのものに対して、99%のうちから必ず破壊が企てられ続けていく。
 もちろん、これは劇なのであり、1%の個性獲得者も、99%の敗北自意識たちを顧客、購買者、消費者化するための広告塔であるに過ぎない。主体は1%の側にも99lの側にもなく、つねに巨大資本移動可能な側にある。さらに言えば、主体はつねにマネーであり、今では個人はマネー移動に介在する端末であるに過ぎない。
 しかし、1%のそうした広告塔たちがとりあえず享受する高額所得と安・楽を、99%の敗北自意識たちは許さないだろう。
 さらに言えば、自意識はけっして計算しない。隠れて穏やかに中程度で生きるのが得かもしれない、という計算式は自意識にはない。

  ■メモとかんがえ20080613・1
[「オヤジ」]
 秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被疑者は「オヤジ」を嫌っていたらしい。彼が携帯サイトに書き込んでいた文章の中に、六畳間でしょぼくれて暮らし、カップ酒を飲むのだけが楽しみのオヤジに自分もなっていくのか、といった文面があった。
 見当違いもはなはだしい。
 現代の日本において、にっぽんの良心をギリギリのところで守っているのは、「オヤジ」と呼ばれる被差別階級だけである。雑談をするような場合、要求されるのは、いかなる話題にも大らかに反応できる心と頭脳、そしてどことなくつねに微妙に鈍い話まわしであったりするが、今の時代では「オヤジ」だけにこの能力がかろうじて維持されている。特に首都圏においては、「オヤジ」こそがさまざまな場面で緩衝材となっており、見えないところで社会の安全維持に役立っている。ちょっと裏道に入ったりすると、首都圏でも至るところに野良猫がいて、ゆうゆうと道を横切っていたり、のんびりと車の上で寝転んでいたり、気弱そうに小走りに道の脇を走って物陰に隠れたりするが、「オヤジ」というのは、つまりは、あれである。ハンドルにおけるアソビ、マグロの切り落とし、麦茶を煮出した後のヤカンの中の大麦の残り。ちょっと穴があいてきたが、まだ捨てるには惜しい靴下。買う時にはきちっと折り畳めてきれいだったのに、すぐにうまく折り畳めなくなってかっこ悪くなったエコバック。
 狭い地球、そんなに急いでどこへ行く。生活のあらゆる場面で、こんなふうに「ちょっと待った!」と問い直してくるソクラテス的存在が「オヤジ」なのであり、効率化一辺倒になりやすい現代にあって、なにかとビジネスライクになっていく判断や行動、ことに、ともすれば冷たくヨソヨソしくなっていくばかりのデザインや意匠などにブレーキをかける貴重な存在である。こういう「オヤジ」をこそ、かつてハイデガーは現存在と呼んだのであり、ニーチェは超人と呼んだ。最近のキリスト教学によれば、従来、救世主と訳されてきたキリストという語は、むしろ「オヤジ」と訳すほうがよいということでもある。イエス・キリストというのは、「イエス、オヤジ!」となって、なかなか景気がよろしい。なんだか、「イエス!、高須クリニック」みたいでもあるが。
 六畳間でカップ酒、というのも、侘び寂びに満ちた図でたいへんよろしい。オヤジがひとり六畳間で飲むカップ酒、なんざ、ラトゥールかルオーあたりにでも描かせたい光景で、高貴な内面性の表現に持って来いのモチーフだろう(ラファエロやモローの感性ではやっぱり無理だろう。ドラクロワも無理かな?レンブラントならいけるだろう。『夜警』ならぬ『夜オヤジ』、これはなかなかいける)。加藤智大被疑者だけのことなのか、それとも25歳前後の日本人に共通することなのかわからないが、かつての日本でなら誰もが日常で身につけていった侘び学や寂び学が極端に修得不足になっているのは確からしい。カップ酒よくぞオヤジとなりにけり。カッコイイ、とは、こういうことを言うのよ。1965年から一九七二年にかけて制作された『兵隊やくざ』シリーズ全9話でも豚箱でとくと見て、出直しておいで、ってんだ。

■メモとかんがえ20080613・2
[ウェーバー]
「国民は国民以上の政府を持つことはできない」、マックス・ウェーバー。

■メモとかんがえ20080613・3
[「バカ」]
『日本人はこうして奴隷になった』(林秀彦著、成甲書房)より。
「やっとあるテレビドラマ制作会社から(著者の娘に[引用者注])お声がかかり、執筆を依頼された。私の知っている限りでも、同じストーリーを6回書き直しさせられた。その『ダメ出し』の理由は、高級すぎ、ストーリ−が難しすぎるということだった。もっと誰でもわかる話にしてください、という注文が5回続き、6回目には、こう言ったそうだ。『あなたの知っている一番バカな人間を頭に浮かべ、そのバカがバカにする人が視聴者だと思って書き直ししてください』。娘はついにこの仕事を断った。」。

■メモとかんがえ20080613・4
 秋葉原無差別殺傷事件について、産経新聞6月12日記事より。
《「酒鬼薔薇」と同学年「理由なき犯罪」世代
 加藤智大容疑者ら現在の25歳は、平成九年の神戸連続児童殺傷事件で逮捕された少年や十二年の西鉄高速バス乗っ取り事件の少年と同学年。世紀末(二〇〇〇年)を多感な十七歳で迎え、同年にはバス乗っ取り以外にも同年代の凶悪犯罪が全国で相次いだ。動機の不可解さから「理由なき犯罪世代」と言われた。
 加藤容疑者らの学年が生まれたのは昭和五十七、五十八年。ファミリーコンピュータが発売(五十八年)されたこともあり、テレビゲームとともに歩んできた世代ともいえる。
 援助交際が社会問題となったころに中学校に入学。まもなく同学年の少年が十四歳で一連の神戸事件を起こした。
 事件の衝撃と警察や社会を挑発する犯行声明の異質性が、その後続発する「十七歳の凶行」に大きな影響を与えた、と当時の専門家は分析した。
 愛知県豊川市では少年が主婦を刺殺、「人を殺してみたかった」と供述。バスを乗っ取った少年は「ネットで殺人や死体の画面をみて、やってみたい気持ちになった」が動機とされる。「学級崩壊」という言葉が生まれたのもこのころだ。
 成人を迎えると「年収三〇〇万円」時代の格差社会が待ち受けていた。ワーキングプア(働く貧困層)は現在の大きな問題だ。》

■メモとかんがえ20080613・5
[移民受け入れ]
 秋葉原事件よりも、よほど重大なのが「移民受け入れ」政策。あと十年もすれば、日本の病院では日本語は通じなくなるから、今から英語をはじめとする外国語を本気でやっておきなさい、と大学生には強調してきたが、これが現実のものになる政策といえる。個人的には他民族化に賛成だが、深くで閉鎖的な国情を思えば、簡単に進むはずがない。靖国どころか、天皇の排除を必要とすることになる深刻な変貌を招来することになろう。この国の政治家は、フランスの郊外問題などを他所事として見ているに過ぎないのではないか。

 自民党有志の「外国人材交流推進議員連盟」(会長・中川秀直元幹事長)は12日の総会で、人口減少問題を解決するため、50年間で「総人口の10%程度」(約1000万人)の移民受け入れを目指すことなどを盛り込んだ提言をまとめた。自民党は13日、国家戦略本部に「日本型移民国家への道プロジェクトチーム」(木村義雄座長)を設置し、提言をたたき台に党内論議をスタートさせる。
 提言は、50年後の日本の人口が9000万人を下回るとの推計を挙げ「危機を救う治療法は海外からの移民以外にない。移民の受け入れで日本の活性化を図る移民立国への転換が必要だ」と断じ、人口の10%を移民が占める移民国家への転換を求めている。  具体的な政策としては、法務省、厚生労働省などに分かれている外国人政策を一元化するため「移民庁」設置と専任大臣の任命▽基本方針を定めた「移民基本法」や人種差別撤廃条約に基づく「民族差別禁止法」の制定▽外国人看護師・介護福祉士30万人育成プラン▽永住外国人の法的地位を安定させるため永住許可要件の大幅な緩和−などを盛り込んだ。
                         (ネットニュースサイト「イザ!」より引用)

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