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ARCH 77

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




『メモとかんがえ』集成 6
         [20080615・1〜20080615・2]


■メモとかんがえ20080615・1
[因縁]・カルマ]
 秋葉原無差別殺傷事件。特徴的なふたつの言葉。被害者の関係者らによる「あの時、ただあそこにいたというだけで殺されてしまった」と、被疑者による「だれでもよかった」。
 境遇、能力、心性、人間関係において、「ただあそこにいたというだけで」今のような人生になってしまった、との思いが被疑者を動かしただろう。そういう被疑者が、「ただあそこにいたというだけ」の人々を表現のスクリーンとした。「ただあそこにいただけ」という認識レベルにおいて、被疑者と被害者たちのあいだに回路ができている。
「ただあそこに」と見えるようでも、実際には、多数の関係性の束が時間的位置や心身状態を決定する。高瀬一誌の短歌にいわく、

  鐘をつく人がいるから鐘がきこえるこの単純も単純ならず

まことにこの通りで、鐘をついているその人が今そこにいることになった理由を考え出せば、単純どころではない複雑な物語を掘り起こさねばならなくなる。
 因縁、カルマという仮説を補助線とし、世界の根本を把握しようとする宗教者や神秘主義者なら、さらに進めて、「ただあそこに」いるという現象は誰の場合であれ起こりえない、と考えるだろう。「復讐するは我にあり、我これに報いん」という有名な聖書の言葉を、宿命の法則自らが語った言葉であると彼らは捉える。幾転生の果ての果てに、あなたが為したのと全く同じかたちで、あなたは幸不幸を被るだろう、というのが、つね日頃彼らの語るところである。
「どうして、たくさんの中で、あの人たちだけが切られたんでしょう?」
「そりゃあ、あなた、過去世で、あの人たち、無辜の人々を藁束のように切り捨てたりした時があったんですからね」
 だいぶ以前、似たような殺傷事件があった時の、知り合いの霊能者との会話。今回の事件とはなんの関係もない。
 霊能ある人々は、こういう事件の後では口が重くなる。被疑者になにが憑いていたかも、まだ口にすべきではないだろう。
 もっとも、移動性の災害や悲劇が近ごろ地上を跋扈しており、そう遠くないうちに地震も事件もまた起こりそうだと仄めかしておくのは、胡散臭く思われるのを覚悟しつつも、ノストラダムスの末裔の嗜みのうちだろうか。

■メモとかんがえ20080615・2
[中原昌也・ファッション]
 もう10年前の著作になるが、中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(1998)には、一見粗暴でいながら繊細で美的な敏感さを持つ若者が、地方の教師たちに対して感じる耐え難い違和感についての的確な記述がある。時代が多少移っても、ここに描かれたものが変わったとは思えない。
 不良の「俺」がいたカフェに、「とにかく色の組み合わせのセンスが悪い」「まるで洗練されていない服装」の教師たちが入ってくる場面だ。「できるだけ多くの色を身につけるのが、何か美徳のようなものだと思っているのだろうか」と訝る「俺」は、「六〇年代のサイケデリック、とも全く異質なその衣服の配色に、吐き気を催しそうになった」。

    だから注文したコーヒーが出てくる前に、俺は店を出ようと席を立った。
 「ちょっと、お前」
  俺の担任が呼び止める。
 「どうでもいいけど、学校へ出てこいよ」
  俺は死ぬ程頭に来て、
 「バカやろう、そんな事より貴様らのファッションセンスをどうにかしろ!」と怒鳴った。
 「はあ?」中年女性の教師が、呆れた声を出したので、余計に腹が立った。
 「お前らの気色悪い服のせいで俺は、学校に行きたくないんだぞ!」
                           (『路傍の墓石』)

 貴重な描写で、なぜ若者たちがつまらぬ理由で道を逸れてしまうか、そんなことがなぜ多過ぎるか、そうした場合のエッセンスになるものをよく抉り出している。もちろん、地方の教師たちの服装に過敏な拒否反応を示すほうがどうかしている、という批判はすぐに誰の頭にも浮かぶ。たいていの若者にも、その程度の常識的な判断力は備わっている。しかし、それを超えてまで反抗したくなるようなセンスのなさ、肥満したおっとせいがショッキンググリーンのジャージパンツを履いて、股間をくっきりと浮き出させているような体育教師の唾棄したくなるような光景が、日本全国の公立の小中高に溢れかえっている事実は、厳然として生き長らえているらしい。
 こうしたセンスのなさは、逆方向にも働く。雑誌『レオン』などに現われた「ちょい悪オヤジ」ファッション(それにしても、ファッション誌の編集者たち、ことに編集長は、なぜあれほど浮薄な醜男なのだろう)や、若者に蔓延した胸元を大きく開く襟高シャツ、そこにチャラチャラ見える十字架やアイデンティティプレート(米海兵隊でもあるまいし…)などのネックレス、携帯電話に異常に大きな多数のストラップをつける傾向、あるいは、なんの衒いもなくドコモダケを下げる無感覚さ。どれも、自分にはセンスがありませんと公言しているようなものだが、地方と違って首都圏でうんざりするほど見せつけられるこうした光景には、ファッションというものがそのまま精神異常度を表わすものであるのを再認識させられる。
 もちろん、無印良品系やユニクロ系、さらに高価なロハス系、おちついたイギリス調お嬢様系、この暑いのにあえてジーンズ生地のスカートを履くのかね系、団塊の世代風ぶっきらぼうジーンズ主義系、色彩感覚どうなっちゃってんの的古着キモノごちゃまぜ系、あるいは銀行員ないし議員秘書風いまだにドブネズミ背広系、張り切り新入社員ふう妙にあかるいスーツ系、中期高齢者同窓会用ジャケット+色違いズボンあわせ系、今風のヤケに型に嵌まったリクルートスーツ系(女子のホワイトシャツの胸開きの深さに注目!)など等も、それらなりの精神異常を逃れ得ているわけではない。ファッションは、他人から見ればどれもが滑稽で、異常で、ダサくて、なってないという宿命から逃れることはできないものだし、たまにステキな装いに出会ったかと思うと内包物はたいていタコチューだったりで、だからこそヤツシや国民服や軍服に逃れたいという思いにもつねに駆られるが、まぁ、そこまでいかなくてもそこそこで、という落ち着き方になりがちなのもファッションなのではある。
 感性、思考法、価値観という無形のファッションともなれば、もはや全方位の戦闘状態というべきだろう。そうとう昔から、思想や内面というのは人類にとってファッション以外の何物でもなかったのだから、この方面の戦闘もなかなかの激化を遂げている。もちろん、ひたすら虚しく。ただに虚しく。

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