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ARCH 86

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年九月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集21
                [第一八五号〜一八六号・二〇〇九月八日〜九月九日]


第一八五号(二〇〇八年九月八日)
 数日前、三軒茶屋から新宿経由で早稲田大学まで自転車で行ってみた。帰りは、そこからターンして、神楽坂、飯田橋へと向かい、外堀通りを四谷まで走り、さらに赤坂まで出て、青山通りを通って渋谷まで下り、さらに三軒茶屋まで戻る行程。東京では、自転車での移動は大きな回り道を余儀なくされることが多いうえ、スピードをまったく出せない場合も多いので、ずいぶん無駄な走行や時間浪費もしたが、この全行程でほぼ4時間近くになった。
 新宿から早稲田がけっこう近く、あそこまで行けば雑司ヶ谷もすぐ先に感じられ、池袋も遠くない。はじめて自転車で早稲田まで足を伸ばしてみた結果としては、そんなことも新鮮に感じられる。しかし、疲れれば電車やバスに乗って帰れるウォーキングと違い、自転車は投げ出して帰るわけにいかない。行きはヨイヨイ、帰りはコワイという感じで、池袋まで行くのはなんとかできても、あそこから三軒茶屋へ自転車を漕いで戻ってくるとなると、けっこうシンドイだろう。今回の三茶〜早稲田自転車周遊でも、帰路の渋谷あたりで相当つらく感じた。帰宅するまでの四〇分ほどは腿が痺れ続け、こういうのは学生時代のスポーツの時以来のひさしぶりの感覚だった。しかも、飯田橋からはすでに日も暮れて、すっかり夜の走行となった。外堀通りの車道を車やバイクとともに疾走するのはなかなか快適な場合もあったが、車が三車線になって渋滞し続ける青山通りでは、タクシーがひっきりなしに左側に寄ってきて、こちらのハンドルのすれすれをかすっていく。そういう場合がたまにあるというのでなく、それが常態となるので、ほぼ車道を行くのは不可能になる。自転車というのは、つねに多少の揺れを左右に起こしながら走っていくものなので、ハンドルのところぎりぎりにタクシーに迫られては、いつ接触するか知れないのだ。そこで歩道に逃げざるをえなくなるのだが、外苑前あたりからの夕方の歩道の混在がまた凄まじく、自転車が自転車らしい通行をするわけにはいかない。今年、何度となく速足で歩いて青山通りを行き来したが、あのあたりでは、そんなやり方のほうが遥かに速い移動ができる。
 車道を自動車なみに平然と疾走していける数十万円や数百万円レベルの軽い素晴らしいサイクリング車を持っていれば、こんな苦労もないのかもしれないが、使用しているのは中途半端なマウンテンバイクで、いろいろな場面で重さを感じさせられる機種でもあるため、それなりの苦労が伴ってくる。こちらが歩道に逃げたりしている時に、颯爽と車道を駆け抜けて自動車やバイクを抜いていくスポーツ自転車の雄姿は何度となく目にしたし、あれはあれで見事なものだとは思うが、あれよりは歩くほうを選ぶつもりなので、そう羨ましいという気にはならない。ただ、自転車には、いま自分が持っているモノよりは、もう少しよさそうなモノが欲しいと思わせるところがある。自転車好きには、少なくとも3台ぐらいは所有している人が多いが、 自然にそんなふうになっていくのだろう。
 そういえば、近頃は、自転車小説もずいぶん増えてきた。自動車でも歩きでもない速度で生活の場を走っていく視点と感覚を表現するのがウリの場合が多いようだが、個人的にはそういうものをウリにすること自体が、もう古い感じがする。自動車でも歩きでもない中間の速度という視点に、すっかり廃れた通俗ポストモダン的感性が染みていて、ああ古い、と思ってしまう。中間とか中庸とかいう概念が流行る時期というものが歴史上にはときどき廻ってくるものだし、仏教や中国思想などの定番のステレオタイプの思考態度のような老舗もあるわけだが、率直に言わせてもらえば、たいした成果が出たためしがない。そもそも、詩も小説も哲学も、「後から後からいろいろ問題が出続けてきて大変で、いろいろ事件も悲劇も喜劇も起こったが、なんとかやって行っている人たちもいるんだから、まぁ頑張っていこうよ」ということ以上を表現したことはないし、なんの問題も心底解決したことはない。文科というのは徹頭徹尾、死を待つまでの時間つぶしの趣味の世界と見なすべきで、科学のフリを構造主義時代のように持ち込んで偉がってもしょうがないし、価値論を真面目に持ち込んでも結局馬鹿を見る。どこまでも「感じ」の世界だということを押さえておかないと、必ず足をすくわれる。そこらのゴミの山から見つけてきた器に御大層な箱書きをして、いきなり数千万の値打ちをつける茶道の道具の世界と本質は同じなのだから、作者も読者もあらゆる関係者も、あまり偉がらないに越したことはない。だいたい、自転車小説なら、とうにベケットが過激なのを書いてしまっているではないか。
 歩行のほうが、よっぽどラジカルだと感じる。ただし、歩行には、あまり商品が必要とされないので、企業がブームを捏造しづらいし、支えようともしない。古いTシャツと手ぬぐいだけで競歩まがいの運動ができてしまうのだ。だが、そういう方向性こそが、文学シーンを大転回させるものに至れそうな臭いがしてならない。個人的な嗅覚の問題に過ぎないかもしれないが。
 ラジカルということでいえば、歩行どころか、臥せっている部屋から一歩も出ない正岡子規のあり方のほうが極限に行っている。夏目漱石論において、蓮実重彦以来、仰臥する主体は定番となっているが、漱石から見れば、畏友子規のあの代替運動なき強いられた仰臥姿勢は、恐るべき極北の運動形態と映っていただろう。想像力においてあれを生き、自分のうちに取り込む無意識の意思が働かなかったとはいえない。
 仰臥といえばカフカ『変身』のザムザだって仰臥に近い姿勢を強いられたことになっているが、カフカがザムザの内面を心理小説ふうに追って描かなかったことは、はたして撤退ではなかったのかと時どき思う。撤退というと、ネガティブな呼び方になるが、カフカはあの時、近代小説の限界を的確に感知して、ザムザの内面を追わない書き方を選び、それによって超克を果たしたのではないか。そうなると、漱石のほうはいかにも実直に仰臥する人物たちを描き込むことで近代小説と付き合い続けたということになろうか。
 ヴィシーの大金持ちの息子として世界を旅してまわり、コスモポリタンという奇妙な開かれた孤独を探究した繊細きわまるヴァレリ・ラルボなどは晩年の20年間、失語症と全身麻痺のまま生き延びたが、世界を股にかけた活動家だったこの作家の失語症と肉体的麻痺という「活動」のあり方も、よく考えてみたいものとして残っている。もちろん、34歳ごろに発狂して、以来、死ぬまでの40年間を精神の闇のなかで過ごしたといわれるヘルダーリンの「活動」も興味深い。正岡子規、カフカ、ラルボ、ヘルダーリンといった非運動的活動性を生きたり表現した人々が地上を通過したことは、誰もが一様に老いて動けなっていく人類経験の場において、貴重なものと考えるべきだろう。

第一八六号(二〇〇八年九月九日)
 大学非常勤講師だけをやって食いつないでいる人々の生活の過酷さは、今の日本社会の中でも相当のものだろう。いつのまにか自分もこの仲間になって、すでに10年が経つ。
最近来た専従非常勤講師関係のメールに、昨年の心中事件が出ていた。27歳の派遣会社員女性が1歳と3歳の娘ふたりを抱いて電車に飛び込んだ事件だが、後に残された夫は38歳の大学非常勤講師、フランス文学を教えていたという。事件については知っていたが、夫が非常勤講師だったとは知らなかった。哀れである。まったく同じ境遇にいる身としては、それ以上のことが軽々には言えない。いろいろなことを感じ、思うからこそ、「哀れである」という、型に嵌ったさっぱりした表現をあえて採ってしまうというところがある。それ以上語れば、自分自身についての慰撫となる。とにかくも自分の場合はまだ生きている、などという感慨に陥りやすくもなる。
 もし、妻と二児を失ったこの夫が、現在の日本に1パーセントの希望さえ抱かずに、歯を食いしばってでも結婚をせず、子供を持たずに、派遣社員の女性とシングルのかたちを保ったまま生きていれば、と思う。そうしたら、どちらもまだ、生き延びていられただろう。彼はそれを選ぶべきだったし、子供を持つなら、大学非常勤講師はやめるべきだった。大学非常勤講師と派遣会社員のふたりで、2児を得て生き延びていける可能性は、少なくともいまの日本の都会にはない。ひとりが生きるのさえギリギリのはずなのに、なぜ子供を持とうなどと思ったのか。フランス文学を教えていたというから、もちろん文学部出でもあろうし、実生活においてかなりの程度ロマンティックだったと想像されるが、もう少し現実を見るべきではあった。結婚はしてもいい。それはそれでいい。しかし、派遣と非常勤で夫婦となるなら、この時代、この国で子供を持つな。無形の見えない子供がいるかのように、ふたりがその子供であるかのように、ふたりだけでふたりを生き延びよ。派遣と非常勤にとって、今は戦時なのだから―― こんなふうに、率直に言ってやるべき誰かが必要だった。
 大学非常勤講師の月収は、確かに人によって違うとはいえ、20万程度がせいぜいだろう。一コマ25000円として、週に8コマの授業が持てた場合の計算である。実際には一コマにそれ以下の金額しか出ない学校が多い。また、週に8コマ以上も得られるのは、英語教員のようにふんだんに授業のある科目の教員であったり、個人的な人付き合いの多さから多量のコマを抱え込んでいる講師だけなので、これから外れる一般の大学非常勤講師たちは、月25000円から20万円程度の収入だけで生きていくことを余儀なくされる。上の心中事件の夫の場合、フランス語フランス文学専門なので、この数年で熾烈を極めた大学での外国語授業削減の荒波をもろに受けたに違いない。それまで、複数の大学で8コマ持っていた講師に、どの大学でも1コマしか与えられなくなって、4コマほどになってしまうというケースが相次いだ。月収10万円で生きていくのは、すでに奇術修行の領域に入る。以前の収入レベルにあわせて生活規模を堅固に作ってしまっていた人々は、生活自体の瓦解を経験せざるを得なかった。こうした大学非常勤講師たちにとっては、この10万円はいわゆる手取りの金額ではない。これで全額なのだ。国民年金や健康保険や税金をここから支払わなければならない。貯蓄があればまだ持ち堪えられるが、それが少ない場合には致命的になる。
 知り合いの中には、週25コマ前後を持っている英語教師たちもいる。一日5コマ、低レベルの大学で中学レベルの英語を教えながら生き延びていく。この場合、単純計算で62万5千円の収入になる。これぐらいの収入になれば非常勤講師も悪くないし、あまりに学生レベルが低いために授業準備さえ要らなくなるが、こういう幸運に恵まれるのはごくわずかであり、限られた科目の担当者ということになる。若いうちしかできないことでもあり、研究やさらなる勉強に興味の少ない人々だからこそできることでもある。  大学非常勤講師の仕事内容を知らない一般の給与所得者は、4コマしか仕事がないのなら暇な時間がいっぱいあるのだから、他の仕事なりバイトなりを入れたらいいと言うし、他のバイトなどと比べればまだしもワリがいいはずだとも言う。しかし、1時間半の授業をするためには、その授業時間と同じ時間以上の授業準備が必要となる。試験やレポートの採点もある。最近は、教育を情熱的に行っているようなカタチを世間や親に見せようとして再試験などにかかる手間も増やされてきている。さらに言えば、授業をする最低限の資格として、一般的には大学院で修士号以上を取っていなければならないのだから、そこまでの学費や生活費や何年もの時間などが先行投資されているわけだし、薄給の非常勤講師たちはみな奨学金を返還する義務を負ってもいるので(5年以内に高所得の専任になった者のみが、奇妙にも返還義務を免除される)、1時間半という授業に支払われるべき報酬は、本来ならば相当の額でなければならない。少なくみても、1時間半の授業には、10時間から数10時間が投入されているということになる。さらに、大学非常勤講師たちはみな研究者なので、個人の研究の継続を重視する必要がある。ここが、一般の給与所得者とはまったく違う。研究者には余暇はない。授業時間以外はすべて、生活時間と研究時間の混在した時間を生きねばならないことになる。もちろん非常勤講師たちには、専任教員に与えられる研究費補助はないし、学会出席費用もでない。研究室はないし、給料は一般的に見て5分の1以下から8分の1以下である。厚生年金はないし、退職金もない(まれに、30年以上の勤務者に3万円ほど退職金が出る学校もある)。しかも、一年契約であるため、来年にはすべての担当授業が消えるかもしれない。これはたんなる可能性ではなく、毎年各地の大学で起こっている事実である。発生している争議の数は多い。実際にそのような雇い止めが起こった時はもちろん問題だが、来年は自分の仕事がすべて消えるかもしれないという思いで毎年を生きていくストレスも、ただ事ではない。低収入と、未来における良化の見込みのなさと、現在時点の仕事の容易な消滅可能性は、専従非常勤講師の生活を特徴づける3大ポイントといえる。
 10年前、ある大学の助手を終えた後、月収8万円の生活に落ち込んだ。住んでいた場所の月の家賃を下回っていた。並行してやってきた他の勤め先も、奇妙にも倒産や事業整理で一様に消え、経験したこともない専従大学非常勤講師生活が始まった。社会の状況を見れば見るほど、もう自分には、まともな収入の得られる可能性も普通の生活のできる可能性もないと思われたので、一度はすぐに自殺しようと思ったが、思い直して、貯蓄が底をつくまでは生きることとし、買い溜めていた本をその間にできるだけ読んでみようと決めた。自分の場合は他のバイトもできるとは思ったが、どの道10年は生きないだろうから、それなら極貧の中であっても、とにかく本だけはもう少し読んでおこうと思った。『ぽ』という詩葉を作って自分の文体の超克も求め続けた。数年間はそのように生きた。やがて、収入がほんの少し増え、増えたかと思うと減り、もうダメかと思うとまた増え、…というのをくり返して現在に至った。誰でもそうだろうが、こういうことの繰り返される歳月が続くと、魂と呼ぶべきところで根源的な疲弊が生じる。疲れ、疲れ、疲れきって、喜怒哀楽も希望も夢も日常も、ただの紙切れのようになる。この10年間の心根は、一度もしゃべったことはない。しゃべる相手がいなくなるのだ。貧困にいたぶられた人間は、自分より収入の多い人間とは本当の会話はしなくなる。不幸に長く苛めつけられると、他人の幸福を恨まないで済ますためには、あらゆる幸福から目を反らすようにもなる。
 冒頭に揚げた心中事件の家族の夫は、だから、他人事ではない。他人事ではないどころか、まさに自分自身だ。この先、この国とここでの生活に未来はないという予想をはっきり持っていたか否かというだけの差。ただそれだけだった。『ぽ』4号の『ぼくの友だちの死ななかったところという場所』や『ぽ』3号の『うつくしい女の子が、生まれる』などには、いま見ると、当時の心の中の風景がはっきりと出ている。心の死を何度も繰り返し、それを描いたり、描きながらずらすことで、たぶん生き延び続けたのだろう。生き延びてよかった、と言えるような心など、とうに失ってはいるのだが。
 もっとも苦しい時代は過ぎ去ったのだろうか。ほんの少し苦しみの少ない時代に今はいるように感じる。なにひとつ本当に良くなったわけではないのだが、難破して海に浮かんでいる身には、少し波が穏やかになった感覚がある。こんな時には、数年前までの、もっと酷い波が打ち寄せ続けた頃を思い出す。あの頃に、いくらかでも気にかけてくれた人たちがいる。仕事を与えてくれたり、なにかしら助けになることをしてくれたり、実際には役に立たなかったとしても、助けてくれようとしたりした人たちがいる。彼らのしてくれたことは忘れない。正確に、ひとつも忘れない。あの困っている時に、誰々はいくらの収入にあたるものを与えてくれた、というふうに克明に覚えている。その人たちとやりとりをしたり、会ったりすると、頭に金額が浮かぶようなまでにリアルな恩を感じる。貧乏をするというのは、こういうことなのだ。人の恩は忘れなくなる。それは自分の一部になるから、忘れられなくなるのだ。まだ困窮しているから、お返しはできない。しかし、忘れない。なにかあったら、必ずその人たちには報いたいと思う。
 そんな時期、意地の悪い態度やデリカシーのない態度を見せつけられもしたが、それらも忘れられない。たくさん詩や短歌を書き溜めながら、詩集も歌集も出さないでなにを気取っているのか、と言ってきた人々もいた。出せるだけの金があれば、ものを書く人で本にまとめたいと思わない人はいないだろうに。そんなことは常識だろうに。どちらかと言えば第一にこちらに仕事を探してくれるべき立場にいるとも見なせそうな人からは、「そんな収入でよく生きてられるね。ぼくだったらムリだろうね。ハハハ」と平然と言われもした。この「ハハハ」はこちらの内臓の底の底まで沁みた。いくつかの学校では、月収80万円以上の教授職たちが新しい外車を購入する話に付きあわされたり、子供を出費の嵩む有名私学の小学校のどこに入れるかで相談されたり、あるいは医学部に入学が決まったので1000万の学費がこれから掛ると困った顔をされたり、有給研究休暇の1年間を海外のどこに行こうか、国内の軽井沢にでも別荘を借りようかなどという話を延々と聞かされたり、高価なワインのうちでもどこの国の何々は美味しいから最近はあればかり飲んでいるが、あなたは何を飲んでいるの?と聞かれたりした。学期がはじまるごとに、そんな話や態度は再開される。こうした無神経さというのは、いかにして発揮されうるのか、といつも思う。
「所詮、階級が違うんですから、しょうがないですよ。教授職は貴族階級、ぼくらは奴隷階級ですから。よくしたところで、せいぜい使い捨ての外人部隊ですね」。専従非常勤講師の仲間たちにこう言ってやると、誰もが苦笑しながら、まさにその通りだと言う。残念ながら、このように話せる仲間も、法学や経済学などの社会科学系の専従非常勤講師たち以外にはいない。権利意識や機会均等などに敏感で、ちょっとのことでも法的な闘争に構成していこうとする戦闘的な人々で、こちらとしては学ぶことが多い。文学系や語学系は、こんな認識を持つだけでも罪であるかのように、こちらに距離をとり出しがちだ。大学側が勝手に一年間の雇用契約書を用意して、専従非常勤講師たちに押印を強いてくる場合が増えてきているが、これが不当労働行為であるというようなことも、文科系の専従非常勤講師たちには想像さえできないことが多い。
 政治と文学に強い関心を持って右往左往して方法を考え続けてきた者に、今後なにができるだろうかと考える。とりあえずは、たとえ失敗に終わっても、昨今の大学の実態を克明に小説化する試みはしてもよいだろうと思う。10年以上にわたって、そのつもりで観察は続けてきたし、格差問題や他の諸問題も静かに見続けてきている。いろいろな不祥事も眺め続けてきた。何人か、本物の悪人だといえる人物たちにも出会い、彼らの手管を長く観察し続けてきた。そんな悪人を主人公にして描いていくのが一番いいのではないかと思っている。『ボヴァリー夫人』ならオメー氏のようなものだが、そんな人物の周囲で、心やさしき人々がまっとうに教育や研究を考えて滅んでいくのを描き切れれば、いちばん現実に近い大学が提示できるだろうし、周囲で静かに消えていった同僚たちへの慰めや、場合によっては供養にもなると思う。
 ながく関わってきたある大学などは、もっとも舞台にしやすい、したくもなる場所だ。今年、この大学には文部科学省から厳重注意が来た。教授たちの殆どが、就任後、紀要論文さえ書いておらず、数名に到っては20年以上なにもしていないという点を指摘された。そこで急遽、研究会を開いて誤魔化すということになり、4月から慌ただしくなった。この大学の場合、教授たちは少なくとも年収1千万を超える。大学院に行かないで、役所からのお天下りで教授になった者も多い。いっぽう、非常勤講師給は大学の中でも最低ラインのひとつである。教授同士のあいだで訴訟がつねに幾つか起こっており、学長は履修要項の授業説明さえも「論文」に数えて数百の論文を持つと平気で主張・記述しているような人間である(彼に対しては、学内の別の派閥のある教授が経歴詐称ということで告訴を準備しており、学長職を奪取しようとしている)。だいたいの教授たちの授業は開始後30分や40分で終わり、出勤してこない教授の出勤簿に、妻である他の準教授がハンコを押していく。学生が質問しに行くと、『法学入門』のテキストにある基礎用語にもかかわらず説明できない教授がいたり、500名の大教室を使用する400名以上が必修履修しているはずの基礎講義でありながら、出欠をとらないので10名ほどしか学生が出席せず、「やる気のある人だけが来るのがいちばんいい」とうそぶく教授がいたりで、作中人物のモデルとしては『坊ちゃん』さながらにオールスターである。自分の気に入った若い女性たちを採用できるようにするために、平気でベテランの非常勤教師たちをクビにする英語教師もいたり、教員が落第にした学生を勝手に教務側で合格扱いにし、しかも金を取っているらしい職員たちもいる。
 問題なのは、真実をそのまま書いたら、でっち上げのエンターティメントだと思われるのではないかということだ。そんな「まさか、そこまでは」ということが日常化してしまっている環境の中で、非常勤講師たちだけは馬鹿を見続け、追い込まれ続けている。だれか本当のことをぶちまける者が出ないと、地の塩になっていくだけだろう。もちろん、大学だけではない。一般の企業でも、とんでもなことがまかり通り続けてきた。バブル時代の新入社員たちのはじめての仕事のひとつには、たいてい得意先のための娼婦調達が入っていた。そんなことは、今ならすべて明かしてもいい頃だろうと思う。一切合財、実名で公表してもかまうまい。会社の宴会でなど、何度となく目の前で、セクハラどころか、強姦が行われるを見てきた。なにをどんな角度から書いても、それなりの短編小説になってしまう。もう文体や形式の刷新など気にせずに、ぶちまけてしまうべき時期かもしれない。

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