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ARCH 87

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年九月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集22
             [第一八七号〜一九〇号・二〇〇九月十一日〜九月十四日]


第一八七号(二〇〇八年九月十一日)
 インターネットのヤフーニュースを見ていたら、ドン・小西という服飾評論家による、自民党総裁選出馬の5名についてのファッションチェック記事が出ていた。内容はともかく、このドン・小西という人を見るたび、服飾評論家というのはこんなにブ男でダサくて勤まるものなのかと、いつも不思議に思う。小太り(いや、大太りか?)の相撲取り崩れが品の悪い衣装を身につけてストリップショーの前座に出ることになったみたいな恰好をいつもしている。あれがファッションなんでしょうか?ヤクザのチンピラのうち、ことに風采の上がらないひとりがお笑い路線で活路を開こうと決めたというのならわかるが、ファッションでなにかモノ申すという人なら、誰もが認めるような魅力ある人であるべきなのではないのか。そうじゃないと、一般人たちは意地悪にしか見ないものだ。たいてい、ファッション関係の男は、骨格からして肉体的に美に遠すぎる生まれの人が多く、ブランド購買客たちはダサく、ブ男やチンチクリンが多く、それをブランド品で必死に覆い隠しているんだナと見える痛々しい光景が多いが、やっぱりコンプレックス韜晦の最後の砦としてファッションはあるのだろうか?彼らがガタガタ言われないのは、ようするに金ヅルだからに過ぎない。此処でのぼくのような編集贅言子にはいかなるファッション商売も絡んでいないので、平然と「猫は猫、詐欺師は詐欺師」(ボワロー)と書くばかりである。
 9月10日の日経新聞夕刊で、しりあがり寿が、「人並み」であろうという良識、「これくらいでいい、という基準」を失った昨今の日本を憂えていた。なるほどねぇ、「人並み」という言葉でとらえるわけか。団塊の世代の後で、まだ学生運動のヘルメットや角材が隠されている文芸部室や美術部室などで中高生時代を過ごしたぼくらの世代には、大学時代もその後も、普段着は新し過ぎないジーパン(チノパンでさえカッコつけ過ぎだと思えた)、専門店や流行発信店のものは絶対に着ないで、量販店のTシャツやワイシャツを着る、という流儀が絶対のものとしてあった。そこらの誰もが買えるものを着て、カッコつけず、しかしその人の味が出るというのを狙っていたのではなかっただろうか。高価なもの、ブランド品など、身につけたら終わり、そこから人品が下がるという常識があった。しかし、八〇年代の半ばには、こういった常識は駆逐され、たぶん、ぼくたちの世代の一部に絶滅危惧種として残るに過ぎないようになった。大学の卒業式にも入社試験にもぼくはジーパンで行ったが(さすがに教科書会社や堅気の医学書出版社の面接には父の古いスーツを借りて行った)、そういう人間にとっては、卒業式にスーツを着るとか袴を着るなどというのは耳にしただけでゾッとなるし、理解不能だった。クリスマスに彼女とのパーティー予約をホテルに入れるとか、ティファニーの宝飾品を送るとかが流行るに及んでは、もう耐えられなくなり、ニッポンという国との精神的かかわりをプッツリと切断するに至った。
   しりあがり寿の、「あらゆる快楽に囲まれているのに、もっとおもしろく、もっと豊かにって欲望をひたすら燃料にして回っていく社会の先には行き止まりしかない気がする。空がきれいとか、水がおいしいっていうだけで幸せになれる燃費のいい心がほしいな」という言葉には共感する。というより、ぼくと同じことを、今のニッポンにいながらこんなふうに思う人がまだいるのかと、ちょっと驚きもし、うれしくもなる。そう思って、彼はいつの生まれだろうと見ると1958年なのだ。やっぱりね。ぼくもそうだが、終わりのほうだとはいえ、50年代に生まれた人間にはこういうところがある。ブランド品に限らず、商品というもの、他人が勝手に作ったものが嫌いなのだ。もちろん、それらを全面拒否して生きられるわけもないが、極力それらを廃して日々を送りたいというところがある。
 自分の生まれ育ちにに関係のない商品やブランド品を身につけるべきではない、という暗黙の了解もあった。ちょっと珍しいパンタロンも、洒落っ気のあるベルトも、ブランドのバックも、買おうと思えば、その程度なら買える。しかし、買わないし、身につけたくない。今年流行のジャケットや靴も、香港土産のような安っちい携帯ストラップも、買おうと思えば買える。でも、下らないとしか思えない。若干の個人差はあるが、こういう感性の最後の世代がぼくらなのではないかと思う。同世代の知人の中には、恥ずかしさの極みだからと、スポーツジムに踏み込めない人や、ジョギングやウォーキングもできない人もいる。スポーツ選手でもない人間が、運動を人目に触れるところでやるなど、もっての外だと自然にぼくらの世代は考えてしまうからだ。自己宣伝、大げさな自己紹介もやってはいけない、ただ待っていなければいけない、自ずと相手がわかってくれるのを待たねばならない、というのも常識だった。60年代以降生まれの、やたら空疎に自己主張の強い人間たちに、ぼくらが場所や地位を大がかりに奪われたのは、こんな控え目さの内的強制からのことと思う。
 ぼくらが中学や高校の時、「シャボン玉」の歌を替え歌したシラケ鳥の歌が、けっこうしぶとく長く流行り続けていた。誰かがなにか頑張ったり、努力したり、目立ったりすると、誰かが必ずこう歌うのだ。「シラケ鳥飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、シラケて落ちた。落ちるなら飛ぶな。シラケ鳥落ちた」。いま考えると、おそるべき平均化強要の歌ともいえる。悪しき意味合いでの「人並み」から、けっして仲間を飛び立たせまいとする、凄まじい力が張り巡らされていたのかもしれない。こういう雰囲気は嫌で堪らなかったので、大学以降のぼくは、自分より後の世代の、いわばルール違反の行動や感性を戦略的に学ぶようになった。彼らから換骨奪胎して取り入れ、いっそう強烈な方法として研いで、彼らに向けてあえて使ってやる。この空虚な国で生きていくには、これしかないと思った。60年代生まれから学び、70年代生まれから学び、80年代生まれからも、90年代生まれからも…というふうに来ている。それらの年代の後ろには、人形使いとして、内向の世代や全共闘世代や団塊の世代の様々な種類のグループが存在しているので、それらについてももちろん復習することになった。
 …で、どこにたどり着いたのか?…どこにも。まわりに学ぶべきなにかはもうないし、真似るほどのものはないし、過去はひたすらつまらない。現在は空虚なままだ。なんの革命もできなかった全共闘世代は、あいかわらず御大層なカクメイをしたかのように飲み屋で叫びながら権力の座にしがみついてノサバッテいるだけだし、団塊の世代はしぼんでしまった。ぼくらの世代は昔から変わらない控え目さを守ったまま天から理解者が降ってくるのを待ちつつ老いていく。60年代以降生まれの世代は、シナイ山の下で偶像崇拝に明け暮れるユダヤ人さながら、物質生活の各論に過ぎない商品のあれこれに目を奪われて時間を費やしていく。あらゆる「研究」は全体との関連を捨てて単なるオタクの時間つぶし活動となり、詩歌は神経病者のリハビリとなるか知的優越を病的に見せびらかしたい者たちの知的パズルとなり、小説は閉じこもりたちの孤独な積み木場となり、評論はポストモダン回顧主義者の作文場か唖然とするような印象批評の垂れ流し場となった。思想は、外来の概念を机上でつなぎ合わせているだけで、マルクス主義批評の頃より危なくなっている。
 …で、どこにたどり着いたのか?そろそろ、ワイマール共和国の終焉ちかく?もうすぐヒトラーが出てくる、そんな最後の平和の熟成の果ての、とっても饐えた臭いのする歴史の曲がり角。
 ぼくらの世代、などというと、自分の世代のなにかを主張したり押し出したりしているように聞こえる。しかし、そこから抜け出すために大がかりな試行錯誤をし続けてきたのだった。たぶん、ぼくはそこから出たのだが、出たところにあったのは、他の世代たちのさらなるつまらなさ、馬鹿らしさだった。人間たちやその活動がどれもこれも事故米のように感じられる時には、どうしたらいいのだろう。やはり、けっきょくはなんらかのオタクになって死を待つのが、もっとも安全で、大人としてふさわしい賢明なやり方だろうか。環境保護というオタク。自分にできるエコと聞いてちょっと頑張ってしまうオタク。脳研究というオタク。金儲けというオタク。日本人として生まれたのだから…と理屈をつけて右往左往する和オタク。やっぱりヨーロッパだとばかり、洋物にふたたび邁進する洋オタク。いくつかのブログに知的な抑制あるコメントを書いて、ブログ的文体でやりとりして何がしかの満足を覚えつつ夜々を過ごしていくオタク。
 …どれもこれも、砂を噛むように味気なく、つまらなく、あほらしく、情けなく感じるとすれば、どうしたらいいのか?ほんとうに、どうしたらいいのか?

   第一八八号(二〇〇八年九月十二日)
 見るからに旨そうだった。丸ごと二尾で390円の新鮮なサバを買った。ちょうど、数日間ひとりで夕食をとることになっていた。最初の日は腹から切り開いて二枚にし、塩焼きに。開いてパックづめにしてあるのとは、比べものにならない。パサつかず、どこを箸で抓んでも、肉汁が豊かに湧き出てくる。いいサバを買ったと思った。だが、他の料理とあわせて、ひとりで大きめのサバを丸ごと食べるとなると、この量はなかなか応える。お腹の苦しい夜となった。
 翌日は五時半に起きたが、そんな朝のうちから、もう一尾のサバをどうしてくれようか、と夕食の算段に頭がかかっている。また塩焼きにしてもいいのだが、昨夜の苦しみが忘れられない。今夜は半身だけ食べることにしよう、と心づもりをする。
 さて、夜。時間のない忙しい一日だったので、1時間だけ早足のウォーキングをし、帰宅後、筋肉運動を少ししてから汗を流すと、ちょっと疲れてしまった。これから夕食づくりだが、サラダや根菜類の煮物などは作り慣れているからいいとしても、問題はあのサバ。味噌煮にでもしようかと思いながら、少しボーッとする。それとなくテレビをつけてみると、なんと、NHKの料理番組でサバ料理をやっていた。サバの筒煮というのが面白そうだ。やったことがない。頭を落とし、内臓を箸でせせり出して洗う。4、5センチ幅ぐらいの輪切りにする。それを、水1カップ、醤油1/2カップ、酒1/2カップ、砂糖大さじ4杯に、ショウガを入れ、千切りこんにゃくなども入れた鍋で、14分ほど落とし蓋をして煮る。水分が蒸発して濃くなり、タレのようになってきたら、サバに何度も匙でかけて、味の上塗りをする。
よし、これだということで、すぐにやってみたら、なかなか旨かった。鍋の中が煮詰まってタレになっていくあたり、それをサバに何度もかけてコーティングしていくあたり、簡単な料理ながら、いかにも料理しているという感じもあって楽しい。これなら毎日食べても飽きない。サバを丸ごと買うのが、これからは楽しみになると思った。

第一八九号(二〇〇八年九月十三日)
 ドゥルーズは旅行を嫌ったそうだが、この5年来、ぼくも旅行をことのほか嫌うようになった。運動や歩行は行うが、遠出を意識的に行わない。何処へいっても、直面するのは観光客商売のカモにされるという現実であり、それからなんとか逸れようとすると、煩わしい配慮をし続けなければいけないためだ。成田空港での出入国時、ふと空腹を覚えた旅客は、レストランをまわりながら嫌な気持ちになるだろう。あまりに高すぎる。話題店でも名店でもない店の少量のソバやラーメンに850円だの900円だのを払うのは、いくらなんでも馬鹿らしい。その金額が惜しいというより、そんな店のそんな料理に金を落とすのが悔しい。けっきょく、マクドナルドで100円バーガーと100円コーヒーを、あるいは(いまは値上げしたそうだが…)それに類した最低価格の商品を買うことになる。アメリカからの家族客たちや、おそらくロシアからの二人組の太った男性客、アジアのどこの国からだろう、浅黒いすべらかな肌の夫婦客、イギリス人かそれともアメリカ人か、あきらかにインテリとわかるシンプルな服装の老夫婦、彼らと隣りあってテーブルに就き、当面のわずかな空腹を抑えるべく、慣れない雰囲気の中で食べる。しかし、そうしてみてわかるのは、意外とマクドナルドのバーガーが悪くないことや、コーヒーがうまいことだ。しかも、何から何まで高い成田で、他の支店とおなじ料金で商売をしているマクドナルドの懐の広さに感心したりする。外国人客でいつもいっぱいになっているのも、理解できる。
 普段の仕事で、否応なく湘南や千葉に出勤で出向かざるをえないので、自由な時間は一歩たりとも都内から出たいとは思わない。にもかかわらず、この一週間ほどは神奈川への小旅が相次いだ。用事で横浜の山手から元町、中華街をながくまわり、観光とは別件で鎌倉じゅうをあれこれとまわる。あまり好意を持たないできた神奈川の街々も、見方によっては面白いと感じた。奈良・飛鳥好きとして、建築物も仏像も新し過ぎる鎌倉などはずっと大嫌いな場所だったが、駅前の路地の小さな新店舗を訪うて、そこの小庭や玄関から門の外に街の賑わいを聞くと、開放感のある閑居の趣が心を落ち着けてくれる。こんな気持ちになれるのも、電車の便が昔と違って格段に良くなったからでもある。渋谷から東横線に体を投げ込めば、いつのまにかみなとみらい線に入って、50分もしないうちに元町・中華街駅に着いてしまう。やはり渋谷からJRの湘南ライナーに乗れば、読書に集中する間もなく横浜、すぐに鎌倉である。うちから渋谷までは電車で5分、歩きも入れて12分なのだから、大げさにいえば、うちの長い廊下の先に横浜も鎌倉もあるようなものだ。交通機関の発達は、当然ながら、都や県という境をどんどん別様のものにしていく。渋谷を起点として見ると、横浜は上野や東京より実際に時間的に近いし、電車を乗り継ぐ面倒や中継駅の馬鹿にならない雑踏を考慮すると、感覚的には上野や池袋よりもはるかに近い。渋谷から上野や池袋に行くとなると、ともすれば気持ちが萎えてしまうが、横浜や鎌倉なら、とにかくも電車一本に乗り込めばいい気軽さがある。
 渋谷周辺や三軒茶屋や下北沢、田園都市線+半蔵門線+小田急線沿線に住んでいる者にとっての「都内」というのは、感覚的には、新宿よりも南を指すだろう。とはいえ、メトロで行ける場所はすべて「都内」という感じもあるので、実際の地理を超越した入り組んだパーソナル「都内」が、このあたりの住人の脳裏には発生しているはずだ。そのパーソナル「都内」内部には、方々で矛盾も起こっていて、そこが面白い。たとえば、池袋。新宿よりはるか北にあるこの街は、渋谷系住民から見ると、どう見ても「都内」ではない。池袋と荒川周辺と川口市などはほぼ同じ場所に感じられる。丸ノ内線も有楽町線も通っていたが、渋谷からメトロで行くとなるとかなり乗り換えをしなければならず、それが甚だしく「都内」性を減少させていた。それが、副都心線の完成で解消された。渋谷から乗り換えなしでメトロ一本で行ける池袋は、雑司が谷といっしょに、たちまち「都内」になったのである。JRというものがあるではないか、と言われるかもしれない。しかし、JRが、一切「都内」性を保証してくれなくなっているというのが重要なところだ。駅ホーム自体が空調されておらず、メトロの各駅と比べて混雑度が比較にならないほど高いという点で、便利な交通機関という認識に合致しないものに都内のJRはなってしまっている。都営バスのほうがよっぽど便利な交通機関に見えてきている昨今だ。
 こんな認識を一挙に変貌させる経験が、今年何度となく行った都内歩行と都内サイクリングだった。時間はかかっても、ある場所からある場所まで歩いてしまえると、肉体感覚として、すべての場所を同一化してしまう意識基準がおのずと創り出されてくる。歩くたびに、自分の中に新たな「都内」感/観が出来ていく。これが、メトロ優先「都内」感/観に襲いかかって、さらなるメタ・パーソナル「都内」が生成されていくことになる。歩いていると、心が静まるどころか、こんな「都内」感/観の煮えくりかえりが続いて、あやしうこそものぐるほしけれ、ということになっていく。

第一九〇号(二〇〇八年九月十四日)
 数日前、テレビでくだらないバラエティ番組を見ていたら、河童の話が出てきた。近ごろ柳田國男の本もあまり開いていないぐらいで、河童というテーマは懐かしかったし、ちょっと新鮮でもあったのだが、ふと重大なことに気づいた。テレビの中では、芸能人たちが河童を笑い物にして、まったくマジメに扱っていないのだが、それを見ているうち、待てよ、自分の場合、つい最近まで河童の存在を信じていたんじゃないのか?…という疑問が浮かんできた。
自分の精神史を内部で遡りながら、河童に関する思いをふり返ってみた。こういう反省というのは、どう努めても正確になどいかないものだが、それでもできるだけ自分に誠実にふり返ってみた。すると、どうも奇妙なことながら、本当につい最近まで、たぶん数年前まで、自分は河童の実在をかなり深く信じていたという気になってきた。もちろん、見たことなどないわけだし、人と話す時には、あんなものはいるわけないと公言してきた記憶もある。河童などいない、と言葉では言い、言葉では思っても来たのだが、しかし、どうも、河童の実在を信じてきた部分が本当にあった、そんな気がしたのだ。
 河童そのものより、こんな自分の気持ちにこそ驚かされた。そうか、ぼくは河童を信じてきていたのか、ということに、我ながら驚いたのだ。へええええ、という感じである。理性というものによって、普段は一元的管理をしているつもりになっている自分の意識のどこかで、理性の検閲をすらりとすり抜けて河童信仰が維持され続けてきたことに、他ならぬ自分自身が驚くというのが、なんだか現代では貴重な体験のようにも感じるし、逆に、いかにも現代的な体験のようにも感じる。
 科学や工業技術の途方もない発展の中にいて、ぼくの小さな理性は必死で科学的理性たらんとして、大口を開けて次々と新たな発見や科学的新常識を鵜呑みにしようとし続けているのだが、そんな健気な努力をするかたわらで同時に発生するのは、他ならぬ自分自身の理性の力の減退である。科学者たちが発見し、証明して事実となった多くの新たな事柄を、ぼくらは「はい、そうですか」と物分かりよく受け入れるし、そうすることこそ賢さの証明にもなるように思っているが、なるほど、科学者たちの発見や証明は、たいていは正しいのだろうとはいえ、「はい、そうですか」とすぐに受け入れること自体は、限りなく個人の理性の力を弱めていくところがある。これほど科学的でない態度というものもない。もっと疑ったり、自分なりの理解を試みようとしないと、科学の時代の真ん中で、もっとも科学的でない頭脳を持ってノーテンキに浮遊しているだけ、ということになりかねない。物理学者でもなかったベルクソンは、自分の思考では了解できないとして、アインシュタインの相対性理論に反論し、現時点から見れば愚劣とも見える誤りを残すことになったし、ポール・ヴァレリーは日々の思考録である『カイエ』の中で、そう困難でもない数学計算で間違いを犯したりしている。後世のぼくらは、しかし、それを笑うべきではなく、専門家でもない者が数学や物理学の考え方の中に入り込んで疑義を差し挟んだり、検証しようとして自分の理性を働かせてみたことの重要さを思い直すべきではないかと感じる。
 河童なんかいるわけない、という考え方にも、理性的であろうとする場合、重大な過ちがあることになるわけだ。どうして河童などいないと断言できるのか、そもそも河童とはなにか。これらの、すでに多様な枝葉に広がっていく可能性を見せている問いに、自分の思考で答えを出さないかぎり、河童問題は、本当は先に進まないことになる。それをちゃんと認識して、みだりに先に進まないで留まるという態度を、自分の意識のどこかが保っていてくれたのだと思いたい気もする。
 河童はいないと断じることは、河童がいると断じることと同じ信仰心理状態に踏み込むことに思える。そうでないとしても、はたして、「河童はいる」と「河童はいない」というふたつの命題における「河童」は同質なのか、と問うと、哲学的問題や心理学的問題や民俗学的問題や文芸批評的問題などに同時に、一気に突入することになる。河童を(川や沼や水辺沿いの草叢などといった)自然界の印象の合成から人間の想像力が作り出していったイメージだと見なせば、現実存在としての河童は「いない」に決まっている。しかし、そのように河童を見なすこと自体は、近代の紋切り型の思考法の貧困な学校的展開に過ぎない。河童を語り続けてきた近代以前の日本人にとっても、そのような河童の認識法は当然のようにあっただろう。だとすれば、「河童」には、もともと、想像力によるイメージ以上のなにかが含意されていたのではないか。そのなにかとは、必ずしも心霊的怪異的なものとは限らないが、生活的理性でつかみとりづらく感じるなにごとか、なにものかの存在を、掬い取ろうとしたのではないか。そうしたことの痕跡として「河童」というものを考え始めると、「河童」は日本的思考の重要なテーマになり変ってしまう。学問的理性や生活的理性でうまく汲み取れないものに、「河童」というような名をつけて概念化するのを日本的思考は得意としてきた。それは空想の産物ではなく、ある実体を表現しているのだが、これを開くには特別の鍵思考が必要となるのだ。デュルケームが「社会的事実」という概念を創造してはじめて把握可能になったものがあるように、妖怪的事実とでもいったなにかが、おそらくある。それは、民俗学の処理方法よりはもう少し先に哲学的に進もうとすることによって、読解可能になるものかもしれない。

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