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花はどこへいった*



       *1930年代に流行った曲。ディートリッヒの持ち歌のひとつ。
        *『狂恋』(原題“MARTIN ROUMAGNAC”George Lacombe監督)



 『狂恋』*を観た。主演マレーネ・ディートリッヒとジャン・ギャバン。1946年、於パリ。1940年代のもので、ディートリッヒの映画は少ない。彼女は主にハリウッド映画に出演していた。40年代の第二次大戦中、特にアメリカは数多くの映画を撮っていたが、彼女自身は連合軍側の兵士慰安であちこち、時には前線までいっていたことも原因としてあげられるだろう(彼女はドイツ生まれ、ドイツ育ちだし、出世作『嘆きの天使』(1929年)もドイツで撮られているので、こうした行為をはたから論じるのは難しい。当時、彼女の行為はアメリカからは善意にとられ、ドイツ側からは彼女との間に長いことしこりを残すことになる)。
 40年代に撮られた作品が少ないのは、年齢のせいもあったと思う。1901年ないしは1903年に彼女は生まれた(書物によって違うのだ)。40年代はおおむね40歳代だ。この年代は、今でもあてはまることかもしれないが、当時のハリウッド映画界では、特に女優には微妙なものだった。若さとそうでない時期。その微妙な時期に、前述の慰安で、映画界から離れていたことも尾をひいている。ともあれ、40年代から以降、彼女の映画出演作は減っている。ビデオになっているものでは、『砂塵』(1941年)とこの『狂恋』だけである(当時撮られた映画自体もおおむねこの程度だ)。
『狂恋』は慰安中に、パリを訪れたディートリッヒと、以前から仲の良かったジャン・ギャバンが再会したことから生まれた作品である。

 私はとても偏見に満ちたディートリッヒ・ファンだ。彼女が美しくさえ見えれば、他のことはどうでもいい、とまでいいたくなるほど。
 偏見的には、1930年代の映画、30代の頃の彼女が一番好きだ。彼女が一躍有名になった『嘆きの天使』は20代の作品だが、この映画には彼女の独特の美しさ、陰りと明るさの織りなす陰影の、あの美しさがまだ欠けている。30年代の映画だと、画像にこれみよがしなまでに影がある。対比的な明るさが、彼女の美しさとほとんど合致して画面にひろがる。その影と光の人工的なまでの融和が蜜月になる、とでもいったらいいか。影と光、には慈しみと冷酷、聖女と娼婦、強さと脆さ、そういった二面、すべてが表情から、仕種から滲んでいる。
 それが『モロッコ』(1930年)からはじまり、『ブロンド・ヴィーナス』、『上海特急』、『間諜X27』と続く。以上5作品、『嘆きの天使』も含めて全てジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督だ。『西班牙狂想曲』(1937年)でこの監督とのコンビを解消するのだが、あるいはその頃が美しかった、といえるのだろうか。わからないし、またそうはいいたくない。だが、スタンバーグ監督についていえば、彼女とのコンビ解消以後、あまり消息が伝わっていない。ディートリッヒ抜きで撮った映画のほとんどが伝えられていない。  スチール写真で見るかぎり、1940年代の映画には彼女の美しさが褪せていた。なにかが足りないのだ。だから、今日まで『狂恋』を観ていなかった。今日、この作品を観て、その意味では私の偏見は正しいと思った。画面のなかで、明るさが彼女と合致していないのだ。年齢のせい? だが30年代の彼女と外見的にはほとんど変わらない。ただあの影との対比がうすれて見えるだけなのだ。
 映画自体は思っていたよりも良かった。ディートリッヒ映画はほとんどディートリッヒ主体の、主人公主義的なものだと思うのだが(それは20年代のルドルフ・ヴァレンティノ主演映画にも似ているだろう、主役が美しく見えることに重点を置いている、といっても、物語ももちろん大切な付随条件なのだが)、『狂恋』ではそれが薄れている。ディートリッヒ主演の映画はそのほとんどが、悪でもあり、善でもある女性、悪と善のあいだ、その「と」である場所にたつ女、といった役が多い。『狂恋』でもまた、娼婦であり、男を手玉にとる女であるが、実は…といった役で、その意味では従来通りなのだが、ディートリッヒファンでなくても、ジャン・ギャバンフアン(私はジャン・ギャバンもけっこう好きだ)でなくても、楽しめる佳作になっている。労働者とブルジョア、愛とそうでないもの、都市と田舎、見かけと見かけでないもの。二重性の渦が淡々と折り込まれている。あるいはそのすれ違い、その同一の行脚から一歩だけ踏み出たものの力。見せかけから見せかけへ。最後にほとんど同一にみえた見せかけから真実が見いだされる。そして別の人物から、つまり対比的に、その真実の強さが破局としてしのびよる。

 だが、たぶんディートリッヒが美しくなかったのは、年齢のせい、だけではない。ハリウッド黄金期の女優美しく見せる主義の神話(があったかどうかわからないが、雰囲気的にはあった)が崩れつつある、その過渡期に彼女は40代を迎えた。そして40代の彼女自身もその空気に困惑していた。それらのことから、影と光は彼女から薄れていったのだ、とも思う。

 ディートリッヒ50代の時に『情婦』(ビリー・ワイルダー監督、1958年)という作品がある。
 私はこれを10代の時に名画座でみた。殺人とそれにまつわる、ヒッチコックばりの法廷推理物である。その意味では女優を美しく見せる必要はないが、役柄として「情婦」であるディートリッヒを美しくみせる必要があった。また、筋上大切な一人二役を彼女にさせることにより、美しき演技力、というものをかいま見せた作品でもあった。

 私はこの映画のなかのディートリッヒを美しいと思った。特に回想シーンとして、酒場で彼女がアコーディオンを弾きながら歌うシーン。彼女は酒場が、そして歌うシーンがよく似合う。この映像は、懐古的に美しかった。ビリー・ワイルダーもまたディートリッヒの良き友人だったという。監督はもはや女優を銀幕の華として撮ることはない。だが、そのシーンには彼女への個人的な愛情が注がれていた。ここに郷愁があるのはなぜだろう? そこにある30年代への傾倒は、私たちファンのような、あるいは過ぎ去った日々に対して人々が漠然と描くような思い入れだけではなかった。そこには監督自身の個人的な、個人をとおしてあふれでる親愛があった。私は彼女の美しさよりも、監督との友情に、監督の彼女をとらえる視線に惹かれたものだった。「この人は、ディートリッヒを知っている」、そう思った。美しさが個人、それだけのものではないこと。
 同じ時期のワイルダー作品『サンセット大通り』(1960年)と比べてみるのも面白い。こちらは20年代の大女優グロリア・スワンソンが主役で、映画の設定も往年の大女優なのだが、その老いからくる悲劇を、女優の姿から過酷なまでに描き出している。

 老いが美しさではない、ということは決してない。そして30年代の懐古、で美しいのでは決してないのだ。懐古的な美しさは去りゆくもの、そればかりに傾倒したものにすぎない。そこには現在がない。懐古をたたみこみ、次の日へつなげること。

『ジャスト・ア・ジゴロ』(1978年)に、ディートリッヒはわき役で出演している。これが彼女の最後の映画出演だ。この映画がストーリーに傾いていたのか、それはわからない。主演のデビット・ボウイに重点をおいていたような気もする。いや、実はストーリーを覚えていないのだ。
 この映画は、20歳頃にやはり名画座で見た。彼女は娼館のマダムの役だ。ほとんど顔を映されないか、黒いヴェールで見えない。映画の途中で私は残念に思っていた。みせろよ、彼女の今をみせろよ、と。
 だが、そしてワンシーンだけ、ふりむく彼女のアップがあった。ヴェールはそこまで近づけばヴェールの役割をしない。ふりむくシーンがとてつもなくゆっくり描き出される。
 その彼女はまぎれもなくうつくしかった。20歳の私は「これは30年代そのままの彼女だ」とその場面に、その不思議さ(40年の月日の崩壊)に泣いた。

 30年代だからではない。たぶん、表情に、それらに折り込まれた美の極致に泣いたのだ、と後から思った。それは女優がつくりだす彫像のようなものだった。監督ではない、女優その人がそそぎこむ追求そのものの美しさについて。時との合致、時との抵触。幾重にもたたまれた闇が明るく彼女をさらけだす。

『狂恋』の彼女はまだ、いやあらたな、何度目かの美の前での、過渡期だったのだろう。30代、それ自体のもつ美しさと、映画作品の、監督の美への強制的(と彼女は思っていた。『マレーネ』(1989年)という、それまでの彼女の軌跡をインタビュー形式でつづった映画がある。その中では声だけの出演だったが、30年代のことに触れられると、すべて『ナイン、ナイン、ナイン』とドイツ語で強く否定していたものだった)な美しさへの反発。

 私は彼女の実生活をあまり知らない。ドイツの男爵家に生まれたこと。戦時中、ヒトラーからドイツに戻るように勧められたが断って連合軍の従軍慰安公演にいったこと。冒頭でも少しふれたが、そのために戦後、いや晩年、その死後までドイツの人々との間に齟齬があったこと(とてもおおざっぱなことをいう。彼らの一人はだいたいこんなことをいっている「確かに彼女のしたことはすばらしい。けれども彼女は私たちが苦しんでいるときに一緒にいなかったから」。どうしても、あたまではわかっていても、彼女をうけいれることが難しいのだ。ディートリッヒがその間、くるしまなかったわけでは決してないのだが。彼女は図星のように、取れない魚の骨のように、ふかく同郷の人々のなかで食いこんでいる)、結婚は若い頃、女優として売れる前と、その後に二回した。そして晩年の十何年、祖国のドイツでもなく、ハリウッドでもなく、パリに住み着き、映画関係者とほとんど会うことなく、ひっそりと息をひきとったこと。享年98歳。看取ったのは彼女の娘だ。
  それはデータにすぎない。私は彼女をスクリーンでしか知らない。60歳を過ぎてから歌手として勢力的に各国に渡って公演活動(日本にも1970年、万博の時に来た)をしていたが、その時代のこともあまりしらない。個人的な感想をいえば、その歌に、歌う姿に、スクリーンほどには美しさか見いだされないからだ。

 だが、彼女の実生活を知らないのは、美しくないからではないと思う。たぶん実生活をも含んだすべてが、スクリーンに投射されているから、事後は…という気持ちもあったのだろう。歌手時代の彼女にも優れた歌は多々ある。だが、すべてはその銀幕に、スクリーンに。30年代の彼女は文句なく美しい。それは光と影とたおやかに蜜月をつくり出すこと、あるいは彼女の若さそのものがおしあげてつくり出した美しさだ。『情婦』にみられる50代の彼女の美しさは、人とのつながりが背面から彼女を照らしだすそれだった。だが私が彼女のいちばん美しいショットとしてあげるのは、『ジャスト・ア・ジゴロ』のふりむくそれなのだ。それはたとえば年月であった。彼女とまじわった人々であった。蜜月からとおざかり、べつの蜜月(それは若年とちがい、つちかってはじめてあらわれるものなのだ)として、提示すること。複雑な闇を照らしだすには、相応に蓄積された光が必要なのだ。その豊穣の、彼女自身がどうであったかはしらない。だが、そのふかまる光陰の美。

(後日、『狂恋』に触発され、1941年の『砂塵』を観た。ビデオには1941年と書かれていたが、手持ちの資料には1939年とある。そう、そしてまた私の話は30年代に戻ってしまうのだ。『砂塵』では西部開拓時代の酒場の歌手、悪役の情婦の役。だが正義の保安官(ジェイムズ・スチュアート)に魅かれてゆき…といったありそうなストーリー、いや彼女の扮する役にありそうな、というべきだ。悪でもあり、善でもある女性。この時の彼女は30年代への別れとして映った。30年代と40年代の狭間に立ちながら、背後に影を色濃く残しながら、決別してゆく美しさ、あるいは郷愁。)




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