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ガラスを踏む。



 『近くて懐かしい昭和展』(小田急グランドギャラリー、二〇〇三年年八月六日〜八月十八日、新宿・小田急)へ出かける。昭和三十年代の街の再現、その頃の写真パネル、三種の神器(冷蔵庫、テレビ、洗濯機)の展示…。この手の催しは、ひとりで行くものではないと思っていたので、行かないつもりだったのだが、新宿でふってわいたような余剰の時間ができたので、行くことにしたのだった。
 わたしはたいていの催し(美術館、映画、旅行)はひとりで出かける。人がいると緊張して対象物に集中できなくなってしまう、あるいはこちらの心が開かないままになってしまうから。
 そのわたしが今回、誰かと…と思ったのは、ああした催しというのは、誰かとうなずきあい、懐かしむものだと感じていたからなのだった。ときには相互に質問をする、その答えのなかに新鮮さが吹き込まれ、昭和という過ぎ去ったかつてがわたしたちにやってくる、そうでなければ「昭和」という時代に意味が持てない、そう思っていたようだった。
 だがもしかして? わたしはかすかな期待をこめて足を踏み入れたのだった。そう、そこにあるのは、まったくなじむことのない世界だった。それは別の空間でできていた。見覚えのあるちゃぶ台、金だらい、かつて見たであろう街の写真が、どうしてもこちらにやってこない、“かつて”がそれ自体で結晶し、完結した、とてもつなく厚いガラスの中の街、そんな風に映るのだった。  似たようなもので、新横浜に『ラーメン博物館』というものがある。こちらは館内に作られた昭和三十年代の町並みのなかに、全国の有名なラーメン屋が連なり、味を競う場所である。ついこちらと比べてしまいたくなるのは、そこにわたしが入る余地があるからだろう。たとえばパン屋や薬屋の横でラーメンを食べる、飲み屋街(小津映画にでてきそうな)の二階には黒い下着が干されている、ボクシングジムのポスター、そこを通りぬけ、今度はバーでトリス、屋台で一杯の酒をひっかける。こちらはわたしがたとえ飲み食いするといった形であれ、ともかく街に参加することができるからなのだろう。錯覚だと思いながらも、嘘の街をイエスといってしまいたくなるのだった。
 『近くて懐かしい昭和展』はそうした参加できるものが、まったくなかった。駄菓子屋をていねいに再現してあったが、そこは立ち入れないように、柵がしてあった。
 だから、せめて誰かと行くべきだったのだ、とも思ったが、それも少し違うのかもしれない。わたしは昭和を求めていたのではなく、いつもどおり、家族を求めていたのだろう。人が故郷を求めるように、わたしはかつての家族を懐かしむ。そこにはもはや帰れない、あるいは帰ったとしてもちがう場所、なのだから。
 誰かと…というのは、他者とのふれあいをもとめてのことだ、頑丈なガラスに収まった過去もまた、圧倒的な他者としてそこにあったので、せめて、たぶん、もうすこしわたしに近しいであろう誰か、他者をその場に置くことによって、ガラスの向こうに接したかったのかもしれない。

というわたし、だけで終えてしまうまえに、箱をなぞって。

 近くて懐かしい昭和? こう聞いて、おそらく多くの人は、昭和三十年代から四十年代までを想起するのではないだろうか。近くて懐かしいということばから、昭和五十年代、六十年代、あるいは戦前を連想することはなさそうに思われる。わたしは戦前のことを体験としては知らないので、なんとも言えないのだけれど、近さや懐かしさというものは、温かみがあるもののように感じられる。ほどよい温度として記憶に残っている、人肌のようなうすれたかたち。戦前や戦後すぐ、というのはそれよりも複雑な−−たとえばわたしの母は昭和十七年生まれである。彼女の二十年代には、生活の苦しさ、戦後の食料難と両親の死があった−−、温かいだけでは決して語れないような重みがあるからなのではないか。そして、昭和五十年代、六十年代は、ふりかえるには近いのだ。それはまだ懐かしいというほどではない。人肌が懐かしいといわないだろうか。そう、それはそれはまだ人肌になっていないのかもしれなかった。会場に訪れていたのは、年配の夫婦といった人々が多かった。前述のわたしの母よりもたぶん幾分上の世代だろう。おそらく三十年代に二十代だったであろう人々。そこからわたしよりもすこし上の年齢の人々、たぶん昭和三十年代に生まれた人々まで。
 わたしは四十年代に生まれているので、ほんとうはあの会場や、ラーメン博物館の雰囲気を知らないのかもしれない。だが、なぜなのだろう? いつも懐かしく感じるのは三十年代の街なのだった。
 記憶と思い出は違う、と聞いたことがある。記憶よりも思い出には個人の思い入れのようなものが付着し、付着し、とてもうつくしくなってゆくものだから、と。たとえば戦時中にたべたスイトンの味を再現するには、実際どおりではなく、幾分かの美味しさを加えなければ、けっして再現されたとは、食べる人には思われない、とこれもどこかで聞いたことがある。
 ラーメン博物館の解説書にも、実際の三十年代はここで作られているよりも古びてはいない。当時は新築の家も店もあっただろう。だがわたしたちの思い出の眼を加味しなければならない。黒ずんだ壁、はげかかったポスター、くすんだ看板…。ここにある街はありえない街だ。だからこそ懐かしく感じられる街なのだ、そんなことが書かれてあったように記憶している。
 わたしが懐かしく想うのは、いつも五歳までの時期である。それを見つめるわたしの眼にもまた、実際以上に褪せたものたち(としての年代)が、小道具としてどうしても必要なのだろう。それがないと嘘なのだ。どうしたってかつてに近づくことはできないのだ。その意味では実際のもの(新築住宅、スイトン)は本当ではない。それはそれだけとして存在しているから、新築住宅はわたしたちが住んでこそ、わたしたちと接してくる。だから、思い出を加味するというのは、わたしたちをそこに始終すべりこませる、ということなのだ。かつてのわたしと今のそれには、思い出がないと接点がない。わたしたちは体験したことしか語ることができないのだから。

 箱をなぞって。

 わたしは美術館グッズ、旅先でのみやげもの屋を見るのが好きだ。ファミリーレストランの会計の場にある玩具の類ですら。これもまた子供の頃の癖なのだろう。あるいは何かに出会えると思っているのかもしれない。箱のなかにふれること。いまあるわたしがそうした品々を見る。そのとき、かつての彼らがふっとやってくる、そんな期待があるのかもしれない。だがそれはたいてい期待で終わってしまうのだった。
 わたしはここでまた(というのは、いつも彼がどこかで響いているから)マルセル・プルーストの永遠の瞬間を思い出す。紅茶に浸したマドレーヌの味に呆然となったとき、彼は幼少の彼であり、現在の彼であり、そのすべてだった…。
 だからそれは懐古というだけではないのだった。わたしは箱にふれたいのだ。かつてが逃げ水のようにふるえながらのがれてゆく、そののがれかたをしりたいのだ、接したいのだ。箱のやぶれ目を見つけること。

 『近くて懐かしい昭和展』にも、出口を出ると、その手のグッズが沢山あった。箱庭(ドールハウスというのだろうか)めかした懐かしの家屋手作りキット、井戸、畳、ちゃぶ台、縁側、細い足のついたテレビ…。これもまた、買った者が作業することよって体験するといえるのかもしれない。だが通りすぎて。懐かしの玩具、あるいは食料品のレプリカの販売もあった。オリエンタル・カレー、エースコックの豚、ブリキの玩具…。
 心にとまるものはひとつもなかった。だが、だからこそ、わたしはそのコーナーをぐるぐる回った。これで終わりにしてはいけないと思っていた。わたしはどこにもふれていない。箱のやぶれ目をさがすこと。
 そこでは万華鏡も売られていた。周りに千代紙を貼られた、たぶんわたしがかつて見たことのあるものだ。わたしは小さい頃から万華鏡にとても惹かれていたのだが、持っていた記憶がない。たぶん店先で、手にとってくるくる回していただけなのだろう。大人になって、とてつもない高い値段の万華鏡に心がひかれるようになった。高ければ高いほど、覗いて見る世界は美しく、かつて見たものに近しく思えていた。どちらも持っていないのは、お金の問題だった。小さい頃は貧乏で、今は気に入ったものは高すぎたので(最低十万円から)。いや、今持っていないのは、値段云々が問題なだけではないだろう。今、美しいと思う万華鏡は美術工芸品としての価値が十分認められる。だが、わたしが美しいと思うのは、かつての万華鏡、安かったであろう、決して美術品でない万華鏡なのだ。そのことに対するギャップにお金を払うことができないからなのだ。
 会場で売られていた万華鏡を覗いてみる。それはスイトンや新築の家屋と同じ話だ。それはとても貧相で、ほとんどかつて覗いた世界とはかけ離れていた。
 箱のむこうにふれるには、偶然であるとか(たとえばプルーストのように石畳で転ぶ)、期待のきの字もなかった思いがけなさであるとか(たとえば、商店街を歩いていたら、数十年前の曲が有線で流れだしたり)、そうしたほうがうまくゆくようにも思える。

 あるいは、箱の周りを迂回して。

 万華鏡については、実はこの展覧会に行くすぐ前に、手作りキットなるものを使って自分で作っていた。制作途中でまわして様子を見て、まだ派手さが足りないと、手持ちのアクセサリーを壊してどんどん詰め込んで。出来上がったそれは、かなりわたしに気に入るものだった。それはかつて、小さい頃に見た万華鏡の世界に幾分なりとも似通っていると思ったから。と、たとえばこんな迂回。
 そして『近くて懐かしい昭和展』のアミューズメントショップ(というのだろうか?)では、結局展覧会とあまり関係があるとも思えない一筆箋を買って帰ったのだった。それはわたしの好きな花、ナンバンギセルの絵柄だったので。そう、こうしたことも迂回なのだ、たぶん。
 これらのことに、箱のやぶれ目は見当たらない。それはかつてという疑似体験から逃れ、いまのわたしがうなずくものだ。万華鏡に関してはいくばくかの諦めはあるが、「安かったであろう、決して美術品でない万華鏡」、という条件にいちおう適ったものが出来上がり、わたしの手元に残ったから。そしてわたしは作り終えたとき、過去からの風を感じることはほとんどなかったが、それでもやわらかな気持ちになったのだった。ナンバンギセルはともかく好きな花なので(蛇足的説明をここで。ススキ等に寄生する一年草。秋口にうなだれたような、キセルに似た赤紫の花をつける。別名オモイグサ。これは販売されることもあまりないし、栽培するのも難しい。更に蛇足になってしまうが、ほんとうにこの花とは、一年に一回、どこか咲いているところを探しに行って出会うだけという、儀式的再会が必要なのだ)、この絵のついた一筆箋を買ったとき、まったく昭和三十年代(あるいは四十年代というわたしの幼児期)に対する思惑はなかった。そこにはただ今のわたし、連綿とつづくわたし、ナンバンギセルと関係するであろうわたしがいるだけだった。

 だがたぶん、わたしは思い描いたとおりの過去には出会うことがなかったにせよ、そんな風に誰かに、なにかに出会っていたのかもしれない。ナンバンギセルは今年も咲く。後日、小田急の前を通ったとき、写真で見た小田急デパート開館当時の、あるいは幼いわたしが訪れたであろう小田急をそこになぞってみた。かすかだが、面影があるような気がした。やぶれ目は、音もたてずに気づかれることのないまま、ほつれているのかもしれなかった。そんなあたりを踏みながら、なぞりながら。壊したくなるだれかがいる。







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