[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



偽の痛みが濡れている、から。
(一色真理『偽夢日記』を読んで)




 偽の夢の日記というフィクションは、マイナス×マイナスがプラ
スになる、という公式があてはまるのだろうか。偽の日記、偽の夢。
たぶん。きっと。だってこんなにいたましくもバスに乗ってやって
くるのですもの。巻頭詩『バスに乗る』で、過去からの痛みとして、
いいえ、それだけでなく、つまり昨日からも今日からも<三〇年前
に捨てたぼくの恋人の声で。>、現在の夢に語りかけてくるように、
複雑に他者を絡みこんだ<真っ赤に燃える巻き貝を渡そうとする。>
のだった。『燃える木』でもまた、<好きだった少女が自殺した。>
ところから、他者という夢が、日記に食い込んでくるのだった。 
『大桟橋』で、父という過去が霊としてやってくる、という現在が
あった。<ぼくの頬がまた少し濡れる。>というふれあいによる融合
があった。感じることにより、過去は今日で生きるから。それはま
た、明日にも。<明日、久しぶりに地上に戻れるらしい。>…だがそ
の明日は未知であるのだ。
 またそれは今日からのことば、としてのふれあいもあるのだった。
たとえば『逃げるうさぎ』にみられるように、日記が他者を観察し
ているうちに、他者(といううさぎ)に食い込んでくる、その自在
のように。だが自在といってもそこには一線が引かれている。まず
<妻が逃げるうさぎをつかまえ>、<大きなうさぎに乗る>私であろう
ひとが記述され、<灰色の長い耳を折りたた>んだぼく(といううさ
ぎ)が謎に巻き込まれてゆく。それはどこまでも他者として世界が
ありうる、という謎なのだ。どんなに溶けて自在であったとしても。
世界に対して<ぼくがやったのだろうか?>と足跡のように響きわた
る声が食い込んでゆく。『音楽』で、<真っ赤な文字や音符>で綴ら
れた<作曲ノート>が血を流している。そんな風にしか、他者を痛む
ことができないのだ。<ぼくの指先が真っ赤に染まってしま>わなけ
れば。<全身の花びらをもがれた痛みで/苦しんでいる/一本の木
があるのだ>(『桜』)。
 自ら流した血…。いや、わたしは夢の言語を、日記の言語を、そ
の痛み、と感じられる部分があまりにわたしにとってなまなましい
ので、その部分を避けて語ろうとしているのではなかったか。
 <ぼくの顔にべったりと貼りついた父の顔を、どうしても剥がす
ことができない。>(『赤い歯車』)、<最近頻々と夜中に父の霊が
やってくる。>(『大桟橋』)、<某月某日 今度こそ本当に父が死
んだ。>(『銀のアコーディオン』)…。
 これらを読むわたし、個人が、十数年前に亡くなった亡父をつい、
挿入してしまうのだった。自らの傷として、わたしの痛みを通して、
過去は喚起され、詩行が近しくも傷としてやってくるのだった。そ
う、その痛みはとても個人的な痛みだ。それがなくとも、これらの
詩篇は、ありえた過去、現在、として、私たちを痛みに誘うのだ。
だが、もう少し。<死んだ父に抵抗することなどできないのだ。>
(『引き出しの中の筆』)、という地点に立たねばいけない、と詩
人は痛みを見せてくれることにより、わたしの昨日を今日にやさし
くまぎれこませてくれるのだった。あるいは私たちの過去を。死ん
だ父をそのまま、傷のままに受け止めること。『水の中の太陽』の
交錯が美しい。<シーツをはぐと深い海>…。
 偽夢日記は、次に章題が「色のついた夢」となる。それはより過
去が近しい痛みとしてやってくることの謂であるかもしれなかった。
と、まだ父の呪縛から逃れられないわたしは思う。<それはあなた
たちが、ぼくに見てはいけないものを見せ、聞いてはいけないもの
を聞かせたからだよ。>(『おぼれる太陽』)、いや、自らの過去
に関わりつづけるのはやめよう。<「何かを失うことなしに、前へ
進むことはできない。何も失うことなく進み続けることができるの
は、時間だけだ」>(『おぼれる太陽』)から。
 色について、<夢に色がないのは 時間が止まっているからだよ>
(『うさぎ』)と関係をむすびながら、偽夢日記に、過去のうさぎ
(たとえば『逃げるうさぎ』)に、交錯しつつ、関係を更新してゆ
く、父を、母を、あるいは昨日を、かつてを咀嚼しようとする試み。
<ぼくが夢日記を/赤インクで書くようになったのは/あのときか
らだったのだ>(『うさぎ』)
 章題が次に「黒鍵」となる。それは未来に通じる現在の痛みだ。
他者の痛みがちりばめられ、作者の指が血に染まる、というふれあ
い。<血と肉と骨が西の空いっぱいに砕け飛んだ>(『ネガ』)それ
を通してしか、語ることができない、という傷。
 過去からきた、そのバスは映画の手法のように、章題「終点」に
くくられる、つまり、円弧を描いて、作者であるとか、わたしであ
るとか、その付近で現時を想起させる、過去を、明日を、つまりあ
なたの痛みを。<そして観覧車のひとつひとつはぼくが愛したり憎
んだりした男の人や女の人の顔なのです。>(終バス)。
 そう、ふれあいは過去だけでなく、過去を更新して、なんども、
ときにあたらしい他者として、関係してくるのだった。<バスはと
ても感情的な乗り物>で、<(だからあたしの両腕には/試し傷、た
めらい傷がいっぱい)>だから(『ハイタウン折り返し場バス亭(終
点)』)。
 それらは『光の指』において、わたしたちの現時をもまきこみ、
かれの昨日を、かれらの日々を慮って、傷んで、指さされるのかも
しれない。<一つの言葉を指さして>(『光の指』)。を探して、探
しあぐねることが、交錯する、痛みとなって。わたしの父がたぶん
そこにいるだろう。彼の夢がそんなふうにあふれ、偽であるからこ
そ、近しくも日々をモノクロームに、つまり色づけるのは私たち、
として提示されるのかもしれない。偽の痛みが濡れている。から、
日記が色づく。相互につながる傷として。疼いた痛みが関係として
それでもやさしい。


ARCH

一色真理『偽夢日記』(土曜美術社出版販売・2000円)

[ 詩・夢・水平線 ](一色真理さんのサイトです)





[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]