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夜はやさし



 かつて、夜はおおむねやさしいものだった。娘を捨てた母親が夜
の街で憩っていた。玄関を開けて泣きながら帰ってきた母親からは
夜の匂いがした。安物の香水と、白粉に、扉のむこうのネオンの感
触をまぎれこませていたのだった。
 夜は娘であった女のなかで、世界をもふくめた他者をはぐくんで
いったのだろう。拒絶であり、手招きであり、未知のすべてであり、
既知のいとしさであり。だがそこにはネオンがなくてはならなかっ
た。圧倒的な暗がりは真の恐怖だ。そして月明かりでも星あかりで
もだめだった。人がつくったもの、としての明かりがなくてはなら
なかった。彼女が白黒映画が好きだったのも、そういう面があるだ
ろう。黒は夜だ。たいてい古い映画だったが、彼女がそこに感じた
郷愁は、時間軸に限らず、他者へ、人肌にむかうものだった。『夜
はやさし』(フィッツジェラルド・角川文庫)で描かれる夜がちか
しく感じられたのも、華やかな夜のしずかな狂気が親しいものだっ
たからだろう。
 今は夜が親しく感じられない。たぶん瑣末なことが積み重なって、
なのだろう。夜の一人歩きが危険であるとか。そうでないのかもし
れない。水にぬれた灯、高層ビルから都市の星をながめること、団
地にともった明かりがやわらかいこと。扉をあけてやってくるもの
を待っていてはいけないのだろうか。だれもそこには、だがそもそ
も待っていたのだろうか。その明かりは閉ざされているのではない。
明かりはみずから作りあげることもできたのかもしれなかった。そ
うではないのかもしれない。夜は近しすぎる友人としてかたわらに
あり続けたようでもあった。灯台のもとは暗いのだ。人肌であると
か、団欒であるとか。代用のなにかが恋しいのだった。同じことだ
があるいは憎んで。
 言葉にすれば、そのようなことを、ゴッホ展(2005年3月23日〜5
月22日、東京国立近代美術館)に出展されていた『夜のカフェテラ
ス』(1888年、クレラー=ミュラー美術館)をみて、思ったのだっ
た。
 その絵は「輝かしい星が建物を照らし、カフェのガス灯はテラス
ばかりか石畳まで照らし出している。テラスには何組かの客がいる
が、むしろ円盤状に輝くテーブルがリズムをつくっているのが目を
引くだろう。目を凝らすと、遠近法の消失点があるあたりから馬車
がやってきていて、音と時間の動きを感じさせる」(ゴッホ展─孤
高の画家の原風景展─カタログ)とある。人としての客がいるが、
彼らよりも、テーブルが、窓からもれる灯のようにやさしいのだっ
た。狭い道のせまい空に輝く星々ですら、あたたかさをそそいでい
た。それはいない人肌のつまった夜だ。独り者のための砦のような
憩いだった。それは傍らにありながら、かぎりなく遠いからこそ、
優しい夜だ。
 それを描いたゴッホ自身の背景はしらない。生まれ故郷のオラン
ダの、オランダ絵画の因習的な夜の暗さから抜け出るため、「心の
慰め」である夜を描くことに成功したとカタログには書いてある。
だがその明るさは慰めなどではない。カフェは有名な『ひまわり』
のように黄の色が、さんざめくほど、ぬりたくられている。それは
極限まで追い詰めたぎりぎりのあたたかさだ。彼のまわりにはだれ
もいない。テーブルがはなつ手招きだ。彼は孤独だ。
 そのやわらかな夜の息吹は、彼の寸前で吐かれていた、そのまま
として彼女にやってくるだろう。そうではないのかもしれない。い
ない彼にふれること。ひとびとよりもあかるいカフェが他者をぬり
こんでやってくる。やさしい拒絶、それは都会のひとつのうそだ。
 その夜がそれでも、おおむねやさしいものだとして、夕暮れはど
うだろうか。『夕暮れの風景』(1890年、ファン・ゴッホ美術館)
は「「黄色く染まる空を背にした真っ黒な2本の梨の木と、いくら
かの麦畑があり、紫色の背景には暗い茂みに囲まれた城館が見える」
(書簡644)」(同展カタログより)。というものだが、その黄色
はカフェの色ではないし、ましてや『ひまわり』の色でもない。そ
こにはやさしさとか、あたたかさ、いのちのたかまり、そういった
ことばが排除されている。便宜上黄色とよばれているだけで、まっ
たく別の色がぬりこめられているのだった。「親密さと孤独感を呼
び起こす夕景」だとカタログには書かれてあるが、彼女にはそうは
感じられない。彼女の思い描く夕景とは、たとえば夜でもない、昼
でもない、ということはその両方である、やさしい接点だった。過
去と未来が出逢う逢魔が刻であり、誰そ彼と境界のぼやけた、彼ら
との交接であった。それは一日のさいごの賑わいだからこそ、祭り
のようになつかしいものだった。
 そう、『夕暮れの風景』には暗さがたちこめすぎているのだった。
それは『夜のカフェテラス』のあたたかさのみじんもない、別の暗
さだ。昼の急速のおわり、そこには昼と夜の親密な接点が感じられ
ない。圧倒的に孤独なまま、忘れられた時間として、その絵は切り
取られているようだ。暗い城館のその古さは未来に決して橋渡しを
しないのだ。
 ゴッホの「生涯最後の数週間」に描かれた作品だからかもしれな
い(カタログによれば1890年6月20日前後から『夕暮れの風景』を
含む連作を描き、7月27日に自殺をはかり、29日に永眠する)。そ
うかもしれない。だがそうではないかもしれないのだ。『黄昏』と
いう映画(1981年、アメリカ映画、CIC)の静謐な夕景がよぎる。
最後の静けさ。
 そう、彼女はながらく、夜からは無関心な深淵として遠ざかって
いたのだし、夕景からは、ちかしい今日として感ずることがあった
としても、たいていは一日の終わりとして、無口な新鮮さを(とい
うことは食すのをわすれた果実なのだが)横切っていただけだった
のだ。
 彼女が夜や昼に感じるやさしさは、もちろんおなじ性質のものだ。
いない母親は帰ってこない。彼女は母親にならなかった。夜がやさ
しいのではない。それは夜自身を息づいているだろう。あなたがや
さしい、といえないように。それはわたしがやさしくなる瞬間の色
だ。淡々と、彼女が母親に電話しているのが聞こえてくる。ゴッホ
の黄色は独り者の明るさだ、と声がする。そうではなかったかもし
れないが。







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