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空と水のひびく場所──作田教子詩集『耳の語法』



作田教子様 拝啓 紫陽花の咲きます候いかがお過ごしでしょうか。
このたびは『耳の語法』ご恵送くださりありがとうございました。
『耳の語法』…。ト書きに語られておりましたのは、耳に宿る、内
なる他者たち、なのでしょうか。わたしを含めた、他者たちの響く
場所、と感じました。「「わたし」が、「ぼく」として同時に存在
して生きるように」。そして『扉のむこう』で、語られる「椅子は
 わたし/そして/そこに/座るのも/わたしかもしれない」、そ
のわたしもまた、分裂しているのでしょう。「わたし」が自由であ
ること、そして、「わたし」ですら、とらえきれることがないとい
うこと。それは内部であると同時に外部なのかもしれない、と思い
ました。そう、内奥のような、あるいは底でつながっているのかも
しれない、世界から掬い取った、たぶん場所で、「鏡のひかり」を
「死んださかな」が泳いでいるのが、美しかったです(『鏡のひか
り』)。
 そこには「死んだ兄」もいます。「死んでしまった兄と 生きて
いるわたしの 同じ色の空だ」(『暮れ色の空』)、という場所で
す。それは、「同じ言語」で、「暮れ色の空に届きたい」という希
求がうまれる場所なのでしょう。そう、「耳」という場所…。その
三半規管はらせんを描いているからこそ、声を希薄にし、ゆたかに
していくのでしょうか。わたしであり、彼らであり、からっぽの
「鐘」でありうる場所。「ことばのむなしさの分だけ/なつかしい
耳も 声も 離れていく」(『浮かんでいる空』)。
 タイトル詩である『耳の語法』、「あたらしい友達/ 母/  
未生の弟」もまた同時に存在する場所、なのでしょうか、「水の耳
を持った友達と/海の匂いを嗅いで/耳で話をしていた」のは? 
この海は、羊水をも想起させると同時に、忘却の河、死の水をも思
わせます。彼らが、他者たちが、会する声が、水音のように聞こえ
てきますから、『安息日』では、「産声」が聞こえてくるのですか
ら。「死んだ兄」と「未生の弟」がささやくかたち、「水のひとは
夜明けに似ている」(『火事監視人』)のは、再生の謂なのでしょ
うか、と思いました。そのあおざめた、澄んだ色彩がしたたってく
るようで。
 猫や、「赤い犬の眼」(『ノイズ』)が集う耳という語法。そこ
は全てであるとともにうしなわれた場でもあるのでしょうか。「な
ぜ幸福な時間は途切れるのか」、「けれどわたくしを置き去りにし
て/わたしはどこへもゆけない」(『ノイズ』)という、うしなわ
れつつ、多重になっているところ、だからこそ、いたみのようにつ
たわってくる、そんな耳もまたあるのだと思いました。そこからは
じまる物語、踏みとどまっているからこそ、たとえば「わたしは冬
に向かっていく」(『泳ぐひと』)のような出立があるのでしょう。
『渇望のかたち・線から』のような、「身体中 苦い 水」をどう
しようもなくうけいれているからこそ、「死んでいった父や祖母や
恋人や兄」を渇望するという線から、『渇望のかたち・点へ』の
「熱い望郷の一点」へ、「燃えつづける」そこへ、見つめる、ある
いは聞くことができるのでしょう。その、「深淵」から、「新たな
 空へ」(『未完』)。聞くことは、そして書かれている、書かれ
たことにも響いてくるのでしょうか。「わたしが覚えた文字は/未
だ開かれていない」(『未完』)…。空が水のあおを持つように。
 そういえば、『耳の語法』は、二部構成ですが、〈 I 耳の語法〉
の最後が『未完』で空が景として流れているとしたら、〈 II 白い
海図〉が、その章題もそうですが、はじめの作品、『川風』と、水
に移行してゆくのが、水平線がにじむようでもありました。
 この II は、主語が「ぼく」になっておりますが、この話者もまた、
「「わたし」が、「ぼく」として同時に存在」(ト書きより)して
いるのですから、しらない、つかみきれない、わたし、であり、他
者であるのでしょう。そして栞で倉橋健一さんが「〈ぼく〉とする
ほうが、ときにはスムーズに発語できる」とおっしゃっていたと書
かれておりますが、そうして距離をおいて、「外化された自己の関
係」(栞より)として聞くことにより、わたしを、耳を、行き来す
る場所として、奥行きが湧き出てくるように感じました。『川風』
で I での「母」が「かあさん」になり、流れてゆくように。
 その主語はさらに川幅をひろげるように、「彼女」になってゆき
ます。あるいは「男」に。それは「わたし」であるかもしれない、
と同時に、「ぼく」が語る女、「彼女」が語る男であるかもしれま
せん。そこには、べつの女たちが、男たちが、あの他者、あの耳の
なかがめくれ、ひっくりかえされたように、通底和音として、らせ
んが感じられるのです。「死んださかな」(『鏡のひかり』)が
「男はそっと海辺で眠った/回遊魚の夢をみた夜だ」(『靴を磨く
男』)を響かせている、と思いました。「骨笛のおとが/ひらかれ
てゆく」(『鏡のおと』)のは、風のおとにまじり、新しい生に触
れている、と思いました。「今夜生まれる子には手のひらに痣があ
るだろう」(『月』)…。
 そう、そこは空と海が出会う場所でもあるのかもしれません。
「ぼくたちは/ずっと以前 遥かな稜線の引かれた位置で/出会っ
たことがある?」(『明度』)、そこはふみとどまる場所でもある
のでしょう。終わりからはじまり、あるいははじまりから終わって。
「冬の音楽/ひとの内側に響く」(『冬の音楽』)、それは冬がま
さに死と再生をはらんでいるから、聞こえてくる、出会える音、な
のでしょうか。
 かたちがくっきりと感じられる音楽、のような、耳をなでるよう
な、けれどもあの三半規管が、どこまでも奥へおりてゆく、そのわ
たしたちにあふれる深淵をも、ふくんだ、それでも耳をおおえない、
といった、調べに似た、詩集でした。ありがとうございました。以
上、わけのわからないことを、すみませんでした。
 今日、近くの池で、コウホネが黄色い花をつけているのを見かけ
ました。水中をとおって地中にあります根が骨に似ているから河骨
というそうです。かれんな、切実な花でした。「あなたに/さらけ
だし/開いてみせたものは/肉ではない/それは 骨だ」(『鏡の
おと』)を想起いたしました。
 暑い季節がやってまいります。どうぞご自愛くださいますよう、
感謝をこめてお祈り申し上げます。


ARCH

(作田教子『耳の語法』思潮社、2005年2月刊)







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