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テーブル・クロスは手招きする
      ――相沢正一郎『パルナッソスへの旅』




 まず、「テクストを読む行為にはつねに制限が伴い、偶然の要素が含まれる。
二つとして同じ読書はない。この意味では、航海は読者の数だけ、読書の数だ
け存在するのだ」(『バーナム博物館』スティーブン・ミルハウザー)という
文章がこの詩集にからまってくる。
 では、これは読まれた本なのだろうか。本のなかの人物たちが彼をひたす。
あるいは読書という行為によってまた眠りから目覚め、息づきはじめているの
かもしれないのだが、それはその以前からありつづけたものだし、ここにいる
彼にとっても既知の、あるいは未知のしたしい人々でもあるのだ。
『パルナッソスへの旅』の冒頭は「わたしの手からはなれたワイン・オープナ
ーが、テーブルの上にある。ワイン・グラスがかたむいてたおれ、こぼれひろ
がるものはテーブル・クロスを血にそめる。……わたしの呼び声のほうに、さ
しのべられた手はひらかれたまま。」とある。こぼれひろがったものは、他者
の血であるようだ。産まなかった、産んだかもしれない子供たちのようだ。あ
るいは出せなかった手紙。「ランボー、ぼくはいまキッチンできみに手紙を書
いてる。」(『3 ランボー』)
 そう、この詩集は、たくさんの人々により紡がれている、連綿としたものの
通過する場、のような印象をもたらすのだった。通過するまえに、たゆたって、
また戻ってきて。美しい場所におかれた一枚の布、のようでもある。パウル・
クレー、須佐之男命、ハムレット、オイディープス、平知盛。つむぎだしたの
は詩人である。だが、つむぐきっかけとなったのは、他の書物の他の作家のあ
るいは画家のことばなのだ。糸がかれらにひたされている。ことばが時をこえ
てやってくる、そのこと自体が旅である。わたしたちは書物によって旅をする
ことができたのだ。できないにせよ、遠い大地を思い出すことが出来る。昔飼
っていたスサノオという名の犬は「庭の柘榴の木の下に眠っている。」(『5
 ローズマリー入りじゃがいもスープと須佐之男命』)。
 そしてこの旅は、ほとんどの場合、台所、前述のランボーへの手紙が書かれ
ている場所、キッチンや食卓、食物から語られている。このランボーの「詩集
に栞のかわりに挟みこまれていた」のは「パン屋のレシート」ですらあった。
そのこと、自身の食の場と書物をつなぐことへの不思議さは詩のなかでも書か
れている。「ふしぎだ。(中略)包丁でりんごの皮を剥いていたゆびさきが、
テーブルの上の本をめくると、二三〇〇年前の風と川の光……。」(『6 川』)
このとまどいが、私たちのいる場に侵食してくるとき、書物につうじる扉が手
招きしてくるようでもある。「ふしぎだ。りんごの果肉が白から黄に、茶色か
ら黒へと変わるあいだに三二年がたっていたなんて。」(前掲詩)この三二年
は、ここでは名前の知らされていない、ひそやかな登場人物、アレクサンドロ
ス大王の生きた年と重なってゆく。
 いや、もっと簡単なことなのかもしれない。心をしずかにたまねぎをむく。
たまねぎをむいた手で書物にむかう。その境目を意識しないこと。そうするこ
とで彼らはやってくるのかもしれなかった。「パック、きみのしわざかい。恋
の三色スミレの汁をしぼってぼくの瞼に注いだのは。」(『7 プロスペロー
の手紙』)その開いた目が見たものは胡椒入れだったので、胡椒入れに恋して
しまった男は、なんなく境界をわたっている、旅をしているのだ。この旅はだ
から私たちにも手招きしてくるようである。
 美しい場所におかれた一枚の布は、だから冒頭詩にあるように、テーブルク
ロスでもあるのだろう。カーテンのようにひかれ、ノートのように、本のよう
にめくられ、入り口が、出口がたちあらわれてくるのだった。
 それはちいさなきっかけからはじまってもいいのだ。だが、そのきっかけは、
じつは目につかないところにあるので、わたしたちは注意深くあつかわなけれ
ばならないのだが。詩人はかれらをひきとめ、ていねいにきっかけをすくいと
り、ひとつの布をつくってゆく。『8 縄文時代のワイン・オープナー』では、
あけにくいワイン・オープナーをつかう姿を縄文時代に火をおこしていた一家
の長のようだ、と連想している。そうすることで、いまいる場所、そこでわた
しが生きているなにか、生活の一端でもいい、夢のかけらでもいい、わたしを
からませることで、布は刺繍され、ノートは書き込まれ、本は読まれるのだっ
た。『枕草紙』を例にあげ、「こうした感情は、わたしたちの生活にも受けつ
がれているんだよ。」という先生の声が聞こえてくるが、それもまたわたしに
とっては「(ずうっと前のはなし)。」である(『9 風のあしあと』)。た
たまれた時を思い出すことで、美しい布は境目をなくしてみせてくれる。こう
しているわたしたちもまた時をつむいでいるのだと、それはうなづいているよ
うでもある。

 だが、それがなぜ食が色濃くにじむ場であったのか。この問いはこれを書く
わたしにとって大切なこととなる。台所、特に自分の詩のなかに台所を置くの
は、わたしにとって長らく鬼門であったから。
「私は長いこと日常のいろんなことになじめていなかった。そんな異和を集約
したスケープゴートとして、台所は置かれていたのかもしれなかった。生きる
ための食と排泄、それはしがらみのようについてまわる美しいもの以外のすべ
てだった。」と、わたしは日記に書いている。このわたしを、『パルナッソス
への旅』の頁に、その行間に、置いてみる。「本を閉じた後も、ものがたりは
わたしの生活に引き継がれてくる。」ことを、とても想って。この引用は『12
 ものがたりの余白』なのだが、ここでは平家物語の「すぐ近く――お鍋の中
では、新鮮なグリンピース」たちが「柔らかく色を失っている」。剥落の目立
つ古い書物、絵巻のように、彼らの栄華のように。ここにわたしを置くにはど
うしたらよいのだろう。「そして包丁を砥いだあとの血糊のような臭い」とい
う喩をとおして、生々しくつたわってくる、美しい旅の場所に。
 それは、ここでもきっかけなのだろう。それは単純なことからはじまるのだ。
そう、目さえ見開いていれば。こうして『パルナッソスへの旅』に惹かれてい
ること、が、まず入り口になるのだろう。白い布になるだろう。ていねいに、
スケープゴートとしての役割をおえた彼らをいたわること。台所たちを「洗濯
干しの下に咲いていたクロッカスの黄色い花」(『14 オイディープスに』)
に対するように、しずかな気持ちでみつめてみる。
 だがそれは、けっして簡単なことではない。単純なのだが簡単ではないのだ。
ここで描かれているのは、作者の注意深く、繊細にあつかったゆえの、とおい
昔のひとびとや、とおいあなたとの出会いの場なのだ。衒いのない、真摯な視
線だからこそ、「今年もまた四十雀が山もみじの下で水浴びする」不思議が、
スピンクスのなぞなぞとなんなく出会うことができるのだ(『14 オイディー
プスに』)。そしてこの結びつきは、この詩人ならではだ。オイディープスと
「しゃけと梅ぼしのおにぎり」が出会う、そのありえなさが、けっして唐突で
はないのだから。だが、それは詩人のしかけたわな、のようでもある。そう、
あのパックのようないたずらなのだ。なぜなら、いたずらものが越境する、の
だから。たとえばあの来歴があるやもしれぬ野菜たちがならぶ食卓で。

 わたしはもちろん、まだ台所と仲直りしていない。だが、その糸口を、この
詩集はひらいてくれた。書物がひらかれ、行間にわたしたちをさしこむすきま
がある。
 『17 声の庭』には、註によると、それぞれ、「「あたし」が虫めづる姫」、
「わたくし」には『源氏物語』から数行、「私」のほとんどに庄野潤三の小説
の文章が織り込まれた」ものであるという。それぞれ亡くなった母の家にかた
づけにゆく娘の話、源氏物語の女たち、もしくは紫式部自身と、ブルグミュラ
ーの曲がながれる、男の家庭、おもに庭とが、共鳴しあっている。ここでの出
会いはもはや、書物との出会いではない。他ではたいていは詩人を想起させた
「わたし」がいないので、書物たちが出会っているようなのだ。わたしたちに
広げられたテーブルクロスに、べつの大切な書物がおかれている。
 そのことを〈読み方は「読書の数だけ存在するのだ」〉、と前掲のミルハウ
ザーのことばを借りて、手元にひきよせてみてもいいだろうか。入れ子細工に
なった書物をひもとく、わたしに似ただれかがいる。
 そして汚れる場所としての台所をも見つめなければいけない、とこの詩はわ
たしにささやいてくれるのだった。「あたし」である娘がたった母のつかって
いた台所は埃が積もり、「ゴキブリにとっての宝のやま」となっている。そう、
肉薄してくる汚さともむきあうこと。かつて母がつけたぬかみそをおもいだす、
娘のかなしみが、埃のなかからたちこめてくること。この汚さを、「美しいも
の」としてとらえること。

 なぜ、それが台所だったのか。わたしにとっても、だれにとっても。わたし
はその問いをまだかかえている。「塩、粉、水、イーストをときほぐし、ねり、
にぎりつぶし、たたきつけ、こね、まるめる、そんな愛の行為を。」(『18
ヘスティアに』)とかまどの女神のようなやさしさをこめて誘ってくる食物、
パンがある。外では「朝刊をひろげると、(中略)タンタロスがわが子を神々
の食卓に出し」ている、そのおなじ場所で、愛が色濃く、あたたかくパンのに
おいを発している。たとえば光と影の表裏一体、としての台所のまえで、なぜ、
こんなになまなましいのか、やさしいパンなのか、と問いをかかえているわた
し。この問いは、台所にかぎらず(かかずらっているのはわたしにとってのネ
ックだからだ)、おちこちに向けられているはずなのだ。そして、この問いを
発し、かかずらっていることも、それでもわたしを『パルナッソスへの旅』の
あのテーブル・クロスの場にたたせてくれたのだ。いや、詩集が問いを差し出
してくれたのかもしれない。ともあれ、こうしてすこしでも参加すること、い
ちまいの布にふれること。
 詩集のさいごに「うっすらひらいた台所のドアから、ろばの影がゆっくり通
りすぎてゆく。」とある。このろばは、現在過去未来すべてをわたるろばであ
る。そう、かつての作者自身がろばについて書いた詩片、それがあるからこそ、
なまなましく立ち会っているのだろう、それが生きる出会いの場なのだ。招待
された旅のなかで、鍵のようなワイン・オープナーがあけられる。




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『パルナッソスへの旅』(書肆山田、2005年8月刊、定価2200円+税)





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