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しん かん
森 環




【森へ、から】

とじこめていた取捨の果てから、とあなたは先ず地平を見やる。
慣れない声をひもとくように、ゆっくり、ときに駆け足で。ありえた
であろう、森の方角をなんどもひっぱり、慣れた地形にむすんで
は、ちらばる箇所を照らすのだ。ほぐれる空、かわいた一滴の、
おちる手前をおぼえている。ちらめく木々は邪魔ではなかった、
まとわって、寝静まった、かれらのあいだで葉がうなずく。夜のな
かであわさり、おのおのの枝で、といった先からつくられる、つら
ぬかれた膜として。起きあがり、あなたはいだくようにかきわける。
わたし、わたしたちのほうへ、音をもたないやさしさだった。見知っ
た視線にまきこむこと、おぼつかない糸、撚った指がのがれてゆ
く。あまたの露へ、たどりにつくにはまだ足りない。
歓待のさなかに、あなたの方位がゆれていた。踏みしめる、靴の
すきまは森に親しい。よりそう葉陰をくぐりぬけ、すくいとらずには
じめること。はじける中途であなたがひらき、にごったすべてが差
しだされる。丸まることで後をつける、あるいはふりむくわたした
ち。森にうかんだ空だった。波打つ草の、原にはまだ陽が射さず
にある。ここにはどんなまだらも見当たらない。ひたされるように
わけいり、あなたの痕跡をぬぐってみる。珠の先から幾重にも線、
くるまるようにやぶきたかった。なびきつづける森の、日々のつめ
たさがかれらを起こす。
ひらかれた取捨の果てから、とわたしはあなたを何度も眠る。余
韻にふるえる糸だった。かすめることを遠ざけ、草の原、よこぎっ
たあのぬれた足をおもいだす、おぼえたかった。見知った草の、
そのまた地形の、露の先々でわたしはかわく。後ずさりのないは
じまりだった。あなたは葉裏にもどってみる。つらぬきが日々によ
りそい、わすれることでつむぐだろう。目覚めることなく、穴のあい
た明るさだった。かれらはわたしたちを幾重にも通す。しずかな膜
の後先で、いちめんの木洩れ日が鳴りひびいた。



【森から、へ。】

森に行ってきました
以前は近くに住んでいたので自転車でよく出かけたところでした
今日は地下鉄でしたから、外にでるまで景色にさわれません
地下鉄口から突然
町並み、道路が、飛びこんできます

まずお弁当と飲み物を買おう、勝手知ったるところですから
まようことなくお店を見つけられます
けれど森の駐輪場のまえで自転車ではない自分に違和を感じました
森に入る時はリボンをつけます
手渡してくれた女性に見覚えがありません

中に入ると、なつかしさはさほど感じられません
期待しすぎていたからでしょうか
森の中の野草の小道をどんどん行きます
私はこの道を知っている、知っている、と三つある池の
ひとつを通り、森の中の日なた、湿性の植物たちが生えている
正午の池に向かいます
そこはいつも山の近くの水辺に来ているような気がしたところでした
今日はずいぶん山の風景が遠く感じられます
小学校の机は大人になってから見るとさほど大きくありません
そんな風にこの遠さはわたしと
この場所の距離に比例しているのかもしれない
そう考えながら、森のなかを彷徨っています。道をまちがえたのでした
やはり、過去にわたる遠さだったのでしょうか

池辺にベンチがあったので、お弁当にします
カラスにまじって、たまにウグイスの声がします
シジミチョウを久しぶりにみました
石亀や鯉がおよいでいます。この鯉は
しばらく姿を消していた時期があり
すこしさびしい不安を感じていたこと
口をあけた彼らをみて思い出します

また森を一周、こんどは間違えずに、と丁寧に歩きます
森、森を名づけるように、思い出すこと
「いま、池にいる。ただ樹々のなかにいる、」
以前は、日常から些細にでもそれた場所として
この場所の名前を取り去って考えていました
今日は、固有名詞をつかむように歩いています
あるいはそうして彼らの今と、かつてを近づけようと
「いま、自然教育園にいる、白金にいる、」
もはや住んでいる場所からそれた地名として

午後から近くで用事がありましたのでバスに乗りました
その道はやはりかつて自転車で通ったところです
思ったより感慨はありません。
ただ、ちょっとした景色にかつての出来事が
ささやかに折り込まれながらすぎてゆきます
ここで花を買った、あの木のむこうに家鴨がいる、寺山修司の家は
角をまがったところだ、この坂の疲れを知っている…
けれども景色たちが、感慨をおぼえる間もなくかつてのわたしとともに
突然出現しすぎて
いくぶんとまどってしまったのでしょうか
よそよそしさがながれてゆきます
教育園の入り口に、幼稚園に、咲いていた桜にたいしてのほうが
親近感がありました
それを見たかつてのわたし(たち)との接触に
あらたな今がつぎたされていくのでした
車窓からの眺めたちは、やはりかつてでした、遠いのです
以前のわたし(たち)は今日のわたしから
ガラス越しに現れては去っていったようでもあります

森へ行ってきました
この景色を取り戻したいだろうか
いや、そうではない、たぶんまた別の景色を、これから
現れるかもしれない森を選んだのだから
わたしは取捨したのだから
さくらは山に生えているように木々のあいまに
ぼんやりとうつっていました
わたしと、わたし(たち)の森たちとの分岐点をふくんでいた
のかもしれません
手渡すように、明日、またどこかにさくらをみに行きます




(二〇〇一年五月―六月に書いたものを加筆改題)

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