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雁信 3

第五の季節

――川口晴美『やわらかい檻』、篠崎京子『夜から』、山口眞理子『深川』



前略 なかなか梅雨がぬけません。あなたがいっていた第五の季節のこと、こ
の時期になると思い出します。春でもなく、照りつける夏でもない、五番目の
季節。あるいはこの季節は、四季のずれにあるのでしょうか。季節がずれるこ
とで、べつの風が吹いてくるのかもしれません。「既知のものを土台にしての
み、未知のものが了解され、衝撃を与える」とマラルメがいっていました。そ
んなことをたとえばこの三冊の詩集に感じつつ、ずれをわたるしめった風をう
けているようにも思います。


川口晴美『やわらかい檻』(書肆山田、五月二十五日発行)
 家族とは何なのか、他者とはなんなのか…。くいこむように、考えさせられ
ました。肉をとおって、痛みとして(『妹朝』の傷の悲しみとして)、時には
悪夢のように(『夜の欠片』の、日々すらくいこんでくる、にじんでくる孤独
をふくんだ悲しみとして)、濃密なことばたちが、圧倒的にやってきます。
「わたしはまだわからないでいる」(『夜の欠片』)その永遠の謎のなかに、
詩行をとおして、わたしたちをひきこんでくるようでした。他者もまた、草の
生命としてもやってきます(『ナツ』)。そして思い出として(『椅子工場、赤
の小屋、それから』のこどものわたしが「大人のわたし」に流れてゆくのが
印象的でした)、罠として(『ファミリー・トラップ』の、どこまでもしかけ
られた、家族らしき像、たとえば「好きになれない母親のような店員」の点在)。
罠、そう、家族というより(わたしが抱いている憧憬に似た家族像とまったく
ちがう、業のような家族像もまた、眼を開かせてくれるような新鮮な驚きがあ
りましたが)、とりまくもの(者、物)と在ること、いままで生きてきたこと、
それらもふくんで、あとがきにもありましたような、罠、として、悪夢のよう
に(『サスペンス、ワイド、いつか』の過去のほうから世界が流出してくるお
びえ)おちこちにあるということ、その「やわらかい檻」が、まざまざとうか
びあがってきました。ゆるやかながんじがらめのような、なまなましい痛みの
ことばでした。けれども、「胸のなかの鳴き声」(『小鳥屋』)が、檻をぬけ
る、うつくしい鳥(ことば)でした。まるでパンドラの箱のような。そして、
『最初からどこにも繋ぎとめられてなんかない』の、やはり、それでも、希望
(「コンビニのビニール袋」が、やわらかい檻のようにみえました)。ことば
が「洗っているコップ」のそばで息づいているのでした。ぬけてゆく、わたし
たちの可能性として、たましいのようにうつくしいことばたち。わたしがここ
に在ることを見つめなおさせてくれる、大切な詩集でした。

篠崎京子『夜から』(銅林社 五月二十九日発行)
 まず、美しい表紙(オルフェウスでしょうか)、描かれた夜の二人が、詩の
夜に導いてくれるようでした。
 『あなたは知ることはないのだろうか』の記号(しるし)が、日々に巣くっ
た、巣くっていた闇として、現実を裂いてゆきます。『枯れ草の中から』の悪
夢にもにた夜がにじみだしてきました。あるいは記号にきづいたからこそ、
「つみをいしきせずに/たべることは もはや/できなくなった」(『つみ』)、
そんな裂け目でもあるのでしょうか。それは過去(記憶)をとおらせる裂け目
でもあるようでした。そして表題詩の『夜から I,II』。夢と現実がにじんでい
るなかを、他者をふくんだ過去がながれこんできました。あるいは「情緒不安
定の子どもが、」とは、記号のひとつだったかもと思いました。ピアフの『パ
ダン・パダン』という音のようだとも思いました。このパダン・パダンは生き
ている限り追ってくる音、といった意味だそうです。そして、特に『夜から 
II』のほうは、私の幼年時代と重なることもあり、印象的でした。また、ここ
に出てくる他者との乖離が、痛みをもった真摯な視線(ほんとうは離れたくな
いのだけれども…)として、裂け目ごと、やってきました。そうして、夢や記
憶、日々が、わたしのそれとまじりあうのでした。『声 I』で声が「にくた
いもとけだしてそれにまざりあっていく」ように、かもしれません。『声 II』
の声は、かそけきことばのようでした。「声…声だけが/その存在をしらせる」
…『夜から』の詩のことばが、たいせつななにかをささやいてくれるようでし
た。「無数のうすいはなびらとなって」がきれいでした。たいせつなそれは、
『夜の底に』のカオスのようなものをふくんでいるのかもしれません。いたみ
のような「その子の/記憶なのか 私の記憶なのか。」なのかもしれません。
この記憶の行き来が、無意識をつうじて、あふれだすたましいのように繊細
でした。『夜から』は、夜のほうから、そして、夜からはじめる、ということで
もあったのか、とこのあたりでようやく思いもします。『部屋』にやってくる
「真新しい朝」が救いのようでもあり、また日々が連なってゆくことの謂いで
もあるように。『紡ぐ』の裂け目が、洗ってはならないことが、運命のように、
のしかかってきました。どうすることもできない、記号、のように。そして流
れ出した「わたしの過去」が、「あなた」のなかで「新たな物語として紡いで
ゆくのだ」に、乖離した他者と、こんなふうにことば、「声」で、裂け目をと
おしてだけ行き来することができるのだ、と、『夜から II』で感じた、わた
しのほうへながれてくることをひしひしと伝わり、なにか「あなた」が、読む
わたしにむけられたようで、そのことで、行間にわたしを含ませられるようで、
うれしいようなめまいがありました。力をいただいた感じでもあります。新た
な物語をそれでもつむぐこと、と。
 少し落ち込んでいたのですが、たましいにふれたような、そんな感触に、癒
されたような気がしています。

山口眞理子『深川』(思潮社、五月十五日発行)
 ここから“深川”という現実の、いまの街と、歴史的な時間をもった街の感
触が、なにかほんとうに川のように流れてまいりました。季節をともない、流
れてきます。
 『永代橋』の老人ホーム、雑草(とくに昭和天皇のことばとからみあって、
昭和という時代をも、背後にもっているようでした)、『風』の蚊帳、『夏祭
り』のなかの浴衣、ほおずき、物干台、とあげればきりがありませんが、事物
たちもまた、いきいきとながれてきます。そして特に『夏祭り』、「あれはあ
なただ」、こう断定されることで、詩のなかの人物が、わたしたちとあわさっ
て、なにか“深川”のなかでとけてゆくようで、事物たちともふれあえるよう
で、うれしかったです。そして『マンピーのGスポット』、城戸朱理さんが栞
で仰られているとおり、詩的リアリティをもって、たちあらわれてきました。
なにかわくわくと。まるで江戸っ子になって、喧嘩でもみているような感覚に
とらわれました。
 川がながれてくるようだ、そう思ったのは、『色から入り口に出て…』の
「さつきまでの少女が/母親とそっくりの女になって/入口とこれまたそっく
りの出口から出てくる」の、一節にふれた折りにもおもいました。こんな風に
継がれてゆく、ながれてゆくものがあるのだと。その意味では『少女』にもひ
かれました。生と性が血として川にそそがれるようで、なまなましいものをも
ひたひたと感じました。
 そして、あとがきの「もとからの育ちでないことが」とありましたこと、そ
の客観性が、ゆたかな川をみつめることができるのだ、あるいは想像力につ
いて、考えさせられもしました。
たくさんのものがつまった『深川』という流れ、たゆたうなかに身をおけた
ようで、ここちよかったです。


 アサガオは一年草ですが、ヒルガオは多年草なのだと、このあいだ知りまし
た。ヒルガオには種はできず、地下茎で増えるらしいとのことも。似ている花
ですのに。やはりあなたのことを思い出しました。どこかで似たところがある
けれど、決定的にちがう、からでしょうか。あるいは…。ヒルガオの花期は六
月〜九月、アサガオは七月〜九月。アサガオはそれでも夏の花の印象が強
いのです。そう、ヒルガオこそ第五の季節の花なのかもしれないと、ふと思い
ました。どうぞご自愛くださいますよう、心よりお祈り申し上げます。



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川口晴美『やわらかい檻』(書肆山田、五月二十五日発行)
篠崎京子『夜から』(銅林社 五月二十九日発行)
山口眞理子『深川』(思潮社、五月十五日発行)





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