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雁信 4

見知らぬ館に咲く四本の彼岸花

――河合隼雄の本をめぐって



 先日は、いろいろとお気遣いくださいまして、ありがとうございました。あ
の折、西洋の自我と無意識と日本のそれについて、おたずねでしたね。じつは
このところ河合隼雄の著作を何冊か続けて読んでいました(こんな風に、同じ
作家のものをまとめて読む癖があるのです)。そのなかに、丁度その周辺のこ
とが書かれてあったので、これらの書物から要約めいたものを書いてお返事に
代えようかと思いました。けれども実際あたってみると、その複雑な根をわた
しもまだ理解していないので、なかなか難しいものでした(日本人のそれは、
後述しますが、どうもまとめにくい性質のものだ、ということもあります)。
けれどもこれを書くことで、あなたの参考になれば、またわたしにもその根の
一端でも、つかむことができるかも…と、なんとか取りくんで見たのです。も
ともと要約たちの集合といった感もある河合隼雄の文章を、さらに短くするの
で、彼の意図したイメージがつたわらなかったり、ニュアンスなど、こぼれて
しまうものたちが多々あると思います。こうしたことは、わたしの力不足です
ので、何とぞ、その点を留意していただけたら、と思います。

 彼の本のなかでは、神話や物語、昔話が意識、特に無意識を映すものとして
語られてゆきます。なぜでしょうか。「未開人のように自我の力が弱い場合、
下界の知覚と内界のイメージは融合が生じやすく、朝日の昇るのを見るとき、
それは神そのものとして体験される。(…)外界にある朝日と内界にある神の
イメージとは完全に融合し、ひとつのものとして体験されるのである。このよ
うな劇的な体験を記録するものとして、神話、伝説、昔話などが存在すると考
えられる」(『影の現象学』講談社学術文庫)、とあります。自我がつよい場
合でも、外界と内界は、密接なつながりをもっています。体験を記録したのが
物語であるのなら、物語には、外界と内界が色濃く反映している、ということ
なのでしょう。「昔話が現実の多層性について物語るものであってみれば、そ
れはすなわち、人間の心の深層構造を明らかにするものとしてみることができ
る」と『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)にあります。この本は日本の昔
話と他諸国の文化的比較、深層心理的考察を通じて、日本人独特の自我形成を
あきらかにしようとしたものですが、突端として、ユング派の分析家ノイマン
の『意識の起源史』をもとに、西洋の近代自我の成り立ちと、日本のそれとの
違いを論じているので、ここから考えていきます。
 まず「天地創造神話に示されるカオス」、「つまり、意識と無意識は分離さ
れず混沌のまま」の状態。次にその「未分化な全体性のなかに、自我がその小
さい萌芽を現わすとき、世界は太母(グレートマザー)の姿をとって顕現」し
ます。この太母は、小さな自我をはぐくむもの、または闇にひきずりこむもの、
両方の面をもっています。日本を例にとると、前者が観音菩薩、後者が山姥的
なもの、また両者を併せ持ったものとして、国産みをした後、死の世界の神と
なるイザナミをあげています(この段階では、東西の違いは薄いのです)。
 次に太母の中で育った自我は、「天と地、父と母、光と闇、昼と夜などの分
離を体験」します。「ここにおいて、意識が無意識から分離されたことになる」。
この段階で、英雄神話が生まれます。怪物退治には象徴的な母親殺し、父親殺
しとして捉えられます。前者は「自我が無意識(太母)の力に対抗して自立性
を獲得するための戦い」、後者は「文化的社会的規範との戦い」です。「自我
が真に自立するには」、無意識および規範からも「自由になるべき」だからで
す。
 戦いの後、西洋の英雄たちは怪獣に捕らえられていた女性と結婚しますが、
これは「自らを切り離すことによって自立性を確立した自我が、一人の女性を
仲介として、世界と再び関係を結ぶことを意味してい」ます。
 この男性(英雄)、女性は象徴的なもので、西洋では、この男性を「無意識
の影響から自由になり、それを支配しようとする傾向の強い意識を父権的な意
識」、女性を「無意識の力が強く支配的で、意識が充分な自立性を獲得してい
ないとき、それを母権的な意識」と呼んで、実際の性別とは区別しています。
 以上、人間の意識の発展過程を西洋中心に考えると、母権的意識→父権的意
識となります。『源氏物語と日本人』(講談社+α文庫)では、この過程に、
さらに性の問題をいれて説明しています。最初に母権社会があり、その例とし
て古代シュメールをあげ、そこでは霊性(スピリチュアリティ)と性(セクシ
ュアリティ)が分離していないといいます。母権から父権への移行にあたって
も説明していますが、「自然に基づく限り(子を生む)母性の優位は動かぬの
で、何らかの意味での反自然的な動きを重視することと、父権とが結びついて」
きます。壊すものとしての存在です。ここに旧約聖書があらわれます。父権的
な神の存在、そしてそこで「女性は男性の骨からつくられること」により、
「男が中心となり、女性は、男性との関係において、自分のあり方を規定され
るようにな」ります。怪獣に捕らえられた女性を助け出した後で結婚するとい
うお話は、男性との関係において語られますが、そこには規定された女性しか
いないのです。
 この父権社会では、「性がまったく霊性から切り離されてしま」い、「精神
と肉体も分離させられることにな」ります。それはひとつには、母権社会では、
「母なる神に包まれているという一体感」(慣習)がありましたが、父権社会
はそれよりも、「力の強い者による全体の統制」(法)を重んじた、というこ
ともあります。また壊すもの、として、英雄に通じる強い神の出現が生じたと
いうこともあるでしょう。太母からの分離に通じる、霊性と性の分離もあるの
かもしれません。そしてキリスト教の時代になりますが、分離された性は、
「個々の人間と神との関係が大切だったので、男女関係は低く評価され」、ま
すます性に拒否感に近いものをもたれてゆきます。
 ところが、神と人間の関係から人間同士の関係に重点が移ってゆくと(ルネ
サンスをここにおいてもよいと思います)、性はまだ除外されていますが、騎
士と貴婦人の純愛、「ロマンチック・ラブ」という物語が語られます。これは、
「女性は男性に対して隷属すると考えられていた父権社会において、女性の愛
によってこそ男性の精神が高められる」、つまり、女性の価値が見直されたこ
とでもあります。あるいはボッカチョの『デカメロン』。これは、聖書という
神の物語から、人間の物語として、出てきたようです。ここには関係性の問題
も含んでいます。また性描写の問題も。「その物語の内容が勢い反キリスト教
的にならざるを得なかったのも、よく理解できるのである」。この『デカメロ
ン』が近代小説のはじまりとなります。
 また、そもそも分離(区別)から発した父権的意識ですから、「ものごとの
区別が明瞭であることが特徴的である。自と他、精神と物質などの区別が明白
となり、そこから近代の自然科学の体系が生み出されて」きたのでした。「近
代科学は、現象の「客観的観察」という方法論を確立することによって、その
体系化と、それをテクノロジーに確実に結びつけることに成功し、飛躍的な発
展を遂げたのである」。(ここのみ『神話と日本人の心』)。ここから、父権
的意識の優位というイメージが生じてくるようです。そして現代になり、女性
たちが社会的に進出しだすと、この父権的価値の強さが、実際の性別にくいこ
み、娘が「父権社会において「成功」するが、それは情緒の未発達という犠牲」
(女性も男性として生きようとするから)を払わされたり、不都合が生じてく
るとあります。また、ロマンチック・ラブですが、この結末は「結婚」ですが、
それに至るまで、女性は受け身です。男性はいつも攻めるほうでなくてはなら
ない。こうして生じてきた無理から、母権への視線の見直しが叫ばれていると。
これは、ある程度は現代日本にも通じることなので(後述しますが、日本はこ
れほど父権社会の影響下にありません)、父権(たとえば官僚制度)と母権
(たとえば招請婚)のいりまじった時代の物語としても、『源氏物語』は現代
世界に有効ではなかったか、と長い序文で語っています。
 なお話は少しそれますが、性については、紫式部の頃は、「キリスト教文化
圏のように、おとしめられたものではなかったであろう。霊性と性との分裂は
ない。日本の場合は(…)倫理的な評価よりも、美的な評価のほうが優先する
と言っていい」とあります。また暗闇での性関係に対して、古代シュメールの
聖娼(神殿で顔を隠した処女が、行きずりの旅人と交渉をもつ、大人になるた
めの儀式)との類似から、「ある種の「死」の体験として受けとめられたので
はないか」と推察しています。「実際聖娼の体験は、娘が死んで成人の女性と
して再生する、死と再生の体験だったのである」。また、ここで、「男女の合
一は本来的には偉大なる女神との一体化である。それは「土にかえる」体験に
もつながったであろうし、エクスタシーの言葉が「外に立つ」ことを意味する
ように、この世の外に立つことだったのではなかろうか」とあったことも印象
的でした。

 では日本ではどうでしょうか。結論からいうと、いろいろな観点から、父権
と母権が複雑に混じりあっている社会だといっています。西洋の場合のように
概観されていないのは、そうしにくい要素をもっているからなのですが、彼は、
昔話、神話、源氏の挿話、など個々に沿って、考察をしていってます。そこか
ら、かいつまんで書いてみたいと思います。
 『神話と日本人の心』(岩波書店)では、日本では男性と女性のバランスが
いつも取られていたと語られます。『日本書記』では、国生みの際、最初に女
性(イザナミ)の発言があったことを訂正し、男性(イザナギ)に言い直させ
ることで、「それまでの女性優位の社会から男性優位の社会に変化したことを
告げるのかと思われるが、実は、この後に、アマテラスという女神が日の神と
して高天原の中心を占めることを、われわれは知っている」とあります。また、
黄泉の国から帰ったイザナギが三貴子を産んだことで、「父性優位の巻き返し
があり、そのままイザナキが最高位につくと、完全な父性優位ということにな
る」のですが、やはり娘のアマテラスという女性が彼の後継者となることで、
バランスが図られているといいます。そのあとも、女性優位となるわけでない
ことにも。スサノヲが高天原を追われたのち、「地上において文化英雄」とし
て活躍すること、その子孫であるオオクニヌシノミコトが、それ以後、(アマ
テラス)高天原系の神に国を譲ることなど。
 また、日本では、家族のなかの長が男性に移行していった時、心理的に母権
的意識が保たれていたので、母―息子が前面に出てくるが、そのつながりを緩
和するものとして男性の老賢者がいる、トライアッドがあるといいます。これ
は『昔話と日本人の心』、「火男の話」のなかの「白髭の翁、美女、醜い童」
と連関した、タカミムスヒ、アマテラス、オシホミミでもいえることです。平
安時代の外祖父―娘(国母)―息子(天皇)というシステムもあげられていま
す。
 ここでキリスト教の、父、子、聖霊のトライアッドとの比較がなされていま
す。「父―母―子というトライアッドは、既に指摘したように極めて「自然」
である。しかしそれを「一体」と考えるのは難しい」(あるいは、自然の状態
からの分離、ということもあるでしょう)。「そこで、キリスト教の三位一体
においては、母を排して、父―子―聖霊という構成になっている。これを「一
体」と考えることによって、唯一神になる。日本のようなトライアッドは一体
ではなく、一神教にならないのである」。元々母権的意識の強いところに、こ
うした文化が入ってくるとき、詳細は省きますが、ほかの国でも、日本におけ
るトライアッドに似た形として取り入れられているようです。「母―息子―老
賢者(男)というトライアッドは、母権的意識を優位とする文化のなかにおい
ては、それを補償する父権的意識をある程度取り入れようとするとき、相当に
普遍的に見られるものである」。
 このトライアッドは、中空均衡構造としても関わってくるようです。さきほ
どから、バランスについて語ってきましたが、このバランス(ゆりもどし)は、
「勢力が強くなって中心を占めるのではなく、適切な均衡状態を見出して、中
心を空に」します。また、神話時代には、三人の神が現れると、その中のひと
りは何もしない神、というトライアッド(タカミムスヒ―アメノミナカヌシ―
カミムスヒ、アマテラス―ツクヨミ―スサノヲ、ホデリ(海彦)―ホスセリ―
ホヲリ(山彦)など)もあげられ、このひとりを中空均衡構造によせて語って
います。
 ここで、キリスト教文化圏との対比があげられます。唯一至高至善の神の求
心力を人間のことを考えるときに移行すると、「強力な中心が原理力と力をも
ち、それによって全体が統合されている、という構造が一般的になる」、この
ことを中心統合構造といっています。
 両者の違いは、後者は「その構造のなかに矛盾や対立が存在することを許容
しない」(このため、争いにより、新しい中心が勝利を収めたりする)、新し
いものへは対立から入るのに対し、前者は「それらが全体的調和を乱さないな
らば、共存し得るところが特徴的」で、「受け入れる」ことから始める、とあ
り、著しい差があるとしています。この中空均衡構造は、日本では仏教、儒教
を取り入れたときのこともあげられています。また「変化はしているが、連続
性を保持している」例として、西洋の革命との違いを差し出しつつ、明治維新
をあげています。中空均衡といっても、代替え的な中心的存在が必要とされる
ので、このことが、個人、集団間で、現代まで続く、二重性につながると述べ
られ、絶対的君主制と、天皇制の比較もなされています。
 この中空均衡の枠から逃れていったものが、『日本書記』で三貴子と共に誕
生したというヒルコ(アマテラスの女性の太陽神に対して男性の太陽神)では
なかったか、ヒルコは中心統合的存在であったから、流されてしまったのでは
なかったか、このヒルコを呼び寄せることが、併存することが、現代の課題で
はないか、と語られ、いちおうの終わりとなります。

 中空構造は、無意識的なイメージにもつながります。なにもないわけではな
いが、把握できないもの、として。ここでどちらかというと、父権的、母権的
よりももっととりとめのない、無意識について多く語られている『昔話と日本
人の心』に戻ります。もちろん、これらは、密接なつながりをもっているので
すが。
 「昔話が現実の多層性について物語るものであってみれば、それはすなわち、
人間の心の深層構造を明らかにするものとしてみることができる」と書きまし
た。「見知らぬ館」という中間地点で、「日常的な空間からやってきた男性が、
非日常な空間に出現してきた美女に会う」というのは、全世界の昔話に通じる
パターンですが、「このような日常・非日常の空間構造を、心の構造として読
みとると、意識・無意識の層と考えることも出来る」とあります。この「見知
らぬ館」からはじまり、非日常へ入ってゆく、そこから旅ははじまるのでした。
ここで起こったことについで、事件として、西洋にも日本の昔話にも「見るな
の部屋(座敷)」型のものが生じるケースについて、まず考えてゆきます。西
洋では、禁止を乗り越えて(父親殺し)女性を獲得する、自我の確立の話とな
りますが、日本の場合、「せっかくこの世ならぬ美女に会いながら、最後はす
べてのものが消え失せた野原に、呆然と立ちつくす」ということになってしま
います。「雪女」「鶴の恩返し」「うぐいすの里」など。「禁令を犯した若者
は冒険することもなく、最後は「すべてを失った無の状態に至る」のである。
河合隼雄はこのことを、「ひとつの昔話が「無」を語るために存在している」
のではないか、「本来「無」は否定も肯定も超えた存在である」から、「それ
は、日常・非日常、男・女などの区別を超えて、一切をその中に包含してしま
う円へ変貌する。それは無であって有である」といっています。それを言語化
(解釈)するのは不可能なので、その周辺に物語があるのではないかと。昔話
とは「自己という書かれざる教典に対する民衆の知恵に基づく解釈なのである」。
西洋の物語が「対象を分析、解釈し得る完結した構造をもっている」のに対し、
日本の物語は、「分析を拒否する構造をもっている」。だが、たとえば立ち去
る女性に「あわれ」を感じることで、聞き手が参加し、聞き手とともに「ひと
つの完成をみる」のである、といっています。この「あわれ」は美意識にもつ
ながりますが、母権的な融合も感じられます。また日本の昔話には、うらみが
あっても、それをつうじて戦いあったり葛藤があったりが少ないようです。
「葛藤の存在は意識化の前提である。葛藤を解決しようとして、われわれは無
意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。葛藤を経験しない解決
は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にある
ことを示している」。このことも、中空構造的な面の示唆といえるかもしれま
せん。
 たとえば、山姥の仲介によって幸福な結婚が生じることは、「無意識の恐ろ
しさを知りつつ、それを拒絶しようとはしない。時に、それを追い払うことは
あるにしても、どこかに共存の可能性もあると考えているのである」。
 また、恐ろしい面も含む無意識との関係からいうと、「ユングによれば、退
行とは、心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象である。(…)一
般には退行といえば、病的現象を指すものと考えられていたが、ユングは(…)
むしろ創造的な心的過程には必要なものであることを早くから指摘している。
退行によって、自我が無意識との接触により得るものは、もちろん病的な、あ
るいは邪悪なものであることもあるが、未来への発展の可能性や、新しい生命
の萌芽であることも考えられる」。これは、日本の昔話が「退行現象の記述に
よって始まっていることからもうなずける」とのこと(無為であった浦島太郎、
ものぐさたろうなど)。そして「退行が「創造的」であるために、そこに新し
い要素が生じ、自我はそれを統合するための努力を払わねばならない」とあり
ましたが、これは昔話でいうと、事件の出現です(森で美女と出会う、亀を助
ける、おむすびを追ってころがってゆく、など)。
 こうしたことは、詩を書くうえでもとても考えさせられました。恐ろしさと
の接点から発せられることば…。
 もう一度、「見知らぬ館」に戻りますが、「見知らぬ館は(男の住む)日常
の世界と(女の住む異界、)非日常の世界の中間地帯と言うことができるであ
ろう」とあります。意識と無意識の接するところです。たいていの日本の昔話
では、男性も女性もそれぞれもとの日常、非日常へと戻って行きます。この接
点に居続けることはできないのです。
 日常、非日常とすれば、非日常が持続すればそれは非日常ではなく、日常に
なってしまう、ということもいえるでしょう。
 また、『影の現象学』では、見知らぬ館に対応するとして、「王と辺境とを
結ぶ道化。日常の世界と非日常の世界に出没するトリックスター」という仲介
者の存在をあげています。
 この接点は、創造する際にも重要なものなのですが、ここに居続けることは
難しいのです。道化やトリックスターの存在が大きくなるとき、均衡がこわれ
るように。けれども、イザナギが黄泉の国を訪ねる、浦島が竜宮城に行く際の
冒険性のなさに、「他界と現実界との障壁は思いの外に薄い」ものだとありま
した。ですから、接点に居続ける難しさというのは、そこから帰ってくること
の難しさとなります。「再び力を得た自我は、新しい統合の道を、現実とのか
かわりのなかで堅めてゆくことになる」、それが創造だと『影の現象学』では
語られています。
 すこし話がそれたかもしれません。障壁について、『昔話と日本人の心』に
戻って考えてみます。
 「西洋流の母親殺しを達成して確立された自我は、意識と無意識の区別が明
白であり、物事を対象化して把握する力をもつ。つまり自と外の区別が明確な
のである。それに比して、日本的な意識の在り方は、常に境界をあいまいにす
ることによって、全体を未分化なままで把握しようとする」。ここで、禁止を
やぶる、あるいは異界からの帰りに、意志を強く持ったものだけが、「高次の
自己実現の段階に昇る」とありましたが、こうしたありかたこそが、見直され
るべきなのかと思いました。たとえばイザナギの帰還のような。あいまいなも
のを受け入れながら、分離すること。なぜなら階段をのぼることは、それでも
選ぶことでしょうから。

 分離ということで、異類婚について、簡単に描写してみたいと思います。区
別ということで、西洋では、異類との結婚ははじめから成立していません。あ
るとしたら、それは魔法で姿を変えられただけなのです。ギリシャ神話などを
ここであげてもいいかもしれません。神ゼウスが牛になったり、白鳥になった
りして女性と結ばれるのですから。日本では、やはり区別があいまいなので、
途中まではうまくゆきますが、「最後に女房が動物とわかると」離婚する
(「鶴女房」など)、など、人間と動物の障壁は極めて厳しく守られるそうで
す。このことは、非キリスト教文化圏として、「ヨーロッパの文明を取り入れ、
それを吸収していった事実と対応させてみると、極めて興味深い」とありまし
た。これは、「それらが全体的調和を乱さないならば、共存し得るところが特
徴的」な中空構造とも関連しているでしょう。もちろん、これはただ事実とし
て、そう述べているだけであって、そこに優劣をつけるものではありません。
また、異類婚については、自然との関係にも通じます。「西洋の場合、人と自
然との一体感を断ち切った後で、人は前とは異質なものとなった自然の一部を
自然に統合することによって全体性の回復をはかるのに対して、日本の場合は、
人と自然との一体感を一度断ち切りながらも、前とは異質となった自然に還る
ことによって全体性を回復する。(…)かくて、西洋にしろ日本にしろ、自我
を成立せしめる背後に必ず存在する「知る」ことの痛みは、西洋の場合は原罪
の意識として記憶され、日本の場合は、あわれの感情として保存されることに
なり、両者の文化をつくりあげてゆく基調をなすものとなったと思われる。」
 最後に、ヒルコで語ったような異質なものについて、あるいはそれをふくん
だ女性の物語として、「炭焼長者」について語っています。この物語は、日本
の昔話にしては珍しく、女性が幸福な結婚をします。けれども、最初は親のす
すめるままに結婚し(受動性)、離婚し、別の男性と自分の意志で結婚(積極
性)します。この女性は、にらの神や倉の神の声を聞いたりするので、無意識
に対しても開かれた存在です。こうしたことから、母権的なものを持ちつつ、
自分の意志を持って選ぶ決断力に父権的なものも動いているとしています。ま
た、最初の結婚相手を懲らしめたりすることがなく、あいまいなままにしてい
るところに全体性をもとめた思考があるといいます(もっとも最初の男性は自
ら恥じて死んでしまいます。これが難しいところなのでしょう。けれども、死
体を床下に埋め、家の神として祭るところも自然とのつながりを保持している
と考えられます)。こうして、受け入れ、かつ切り捨てる女性として、矛盾を
ふくんだ存在であることから、ここに流してしまったヒルコを受け入れる可能
性をみています。こうした矛盾をも含んだものが全体性であると。
 いわばトライアッドを一つ増やし、四位一体にすること(これは全体性の象
徴としてユングが、三位一体に第四者、すなわち悪魔の存在、を入れたものの
アレンジです)で、全体性は描かれるべきだというのです。「唯一の自我、そ
れによる統合、というイメージは西洋におけるキリスト教文化によって生み出
されたものであるから、われわれは、多重の自我の存在ということを考えてみ
てもいいのではないか。その方がこれからの多様化する世界に対応しやすいの
ではないか(…)老人の意識、少年の意識、男の意識、女の意識、それらすべ
てもつことで、全体性にいたること」。これもまた矛盾を含んだものとして。

 以上、要約してみましたが、わたしが充分に理解していないので、問題のま
わりをめぐってしまうことだけで終わってしまっているかもしれません。また、
分離し、切り捨ててしまったものが多々あるでしょう。もうしわけなく思って
います。けれども、たとえば、このあたりをめぐることが、接点のちかくにす
こしでもいってくれれば…、切り捨てたものが完全に切れていなければ…と勝
手なことを考えつつ。

 先日、彼岸花の群生地に行ってきました。死人花、毒花、地獄草などの呼び
名もあるように、あまりいいイメージがない一方で、曼珠沙華は、梵語で、
「赤い花」の意味で、「おめでたい事が起こる兆しに、赤い花が天からふって
くる」と仏教の経典を由来にしているように、いわば、両方の意味を兼ね備え
た花です。生け花や茶花としては使われていない縁起の悪い花、という一方で、
こうして毎年、開花時期になるとわたしのように、たくさんの人が見に訪れる、
ということでも同じことがいえるでしょう。そして、彼岸花の名前の由来は、
お彼岸の頃に咲くから、なのですが、あの赤さを見ていると、生と死、なにか
こちらとあちらの間に咲いている花のようでもあると思いました。あの「見知
らぬ館」のように。

 彼岸花の赤は、紅葉の赤につがれるでしょうか。すこしずつ秋が変わってき
ましたが、どうぞご自愛くださいませ。またお会いできますことを心より。





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