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雁信 5
見つかった名前としての《接吻》――あるいは聖、性、生…



 先日はありがとうございました。このあいだ少しふれ
ましたクリムトの《接吻》のこと、今日はお手紙にして
みました。あの折は、お話ししませんでしたが、この頃
わたしのなかで、じつはあなたと《接吻》がなんとなく
結びついてしまっているのでした。
 いつからでしょうか、気がつくと、この絵はわたしに
とってとても大事な一枚となっていました。一年ほど前
の日記に、こんなことを書いています。〈グスタフ・ク
リムトの《接吻》(一九〇七―八年、オーストリア美術
館)。「抱擁するカップルが、装飾されたモザイク模様に
包まれ、独特の色合いを持つ金色の背景の前に表されて
いる」と、『週刊アートギャラリー』(デアゴスティーニ、
一九九九年四月二十日号)には解説されている。わたし
はずいぶん前に一度だけ実物を見たことがあるのだった。
厳かで絢爛なエロティシズム。館内の照明が暗かったの
だろうか。思い出すのはいつも、闇と黄金なのだった。
今、さらにこの《接吻》の解説を読んで、なるほどと思
ったことがあった。「男の衣服を飾る長方形の形」と「女
性の衣服に見られる受容的ならせんや、円や、楕円形」
のそれぞれが「性的なシンボル」である、と。知らなく
ても絵からエロスは感じていた。だがこんな風に教えて
もらうと、絵を見なくても、言葉で思い出にさわれるの
だと思った。あの衣服たちが、言葉によって、生を、聖
を、性を、織り込んで、手招きしてくるのだった。〉
 はじめての出合いの後、だんだんと、ずっと、わたし
のなかに絵はしまわれるようになったのでしょう。まわ
りに付帯物をすこしずつちりばめて。あるいは《接吻》
は混成したもの、として時間とともに、徐々に大切さを
増していったのかもしれません。絵それ自身のもつ磁力
に引き寄せられたもの、想いたち、あるいはわたしのイ
メージする《接吻》をとおしてやってくるものたち、想
い。内的な連関、外からとりいれ、咀嚼したものたち。
それらの総体を、わたしは《接吻》と呼んでいるのかも
しれません。名付けられた、思い出された名前のように。
 漠然と《接吻》付近であたたまり、忘れつつ、くすぶ
って。『源氏物語と日本人』(河合隼雄、講談社+α文
庫)に、こんな箇所がありました。「古代シュメールに
おいて、大女神イナンナと彼女の夫、ドウムジの結婚、
すなわち聖婚を讃えることから発して、一体感をもつこ
とが重要になってくる。(…)この文化において霊性(ス
ピリチュアテイ)と性(セクシュアリテイ)がまったく
分離しておらず、(…)自分という身体の中の美と情熱
に気づき、霊と性との共存する歓喜を味わうのである」。
ここに聖と性があります。けれども、この文章を見たと
き、わたしは《接吻》のことではなく、あなたをまず想
起しました。あるいはあなたとわたしを。わたしがあな
たに、どうしたって幾分かは感じてしまうはずのどんな
聖─性以外のものを感じないように、あなたもわたしの
顔に聖─性を感じているといってくれました(そうでし
ょうか…)。そしてその互いの描く像にひきずられるよ
うにして、《接吻》を思い出したのでした。ともったよ
うな金の色。なぜなら、「話をする人は誰しも明かりを
消すものだ」(パスカル・キニャール『舌の先まで出か
かった名前』青土社)から、思い出された言葉は明かり
だから。暗闇にともった明かりのなかで、こうして《接
吻》はあなたと結びついたのでした。
 けれども、この聖=性は、そこにとどまるものではな
いでしょう。日記には、生、聖、性と書きました。ここ
には、聖―俗や、性―霊、生─死が、あるいは非日常─
日常もかかわってきます。それらはたがいに交錯してい
るでしょう。この発見はだから手放しに喜ぶものではあ
りません(嘆くものでもありませんが)。
 思い出された言葉、あなたをふくんだ名前としての《接
吻》に、導かれるようにして、バタイユの『マダム・エ
ドワルダ』(光文社古典新訳文庫)を遅まきながら読み
ました。娼婦のなかで、瞬間的に聖と生と、性と死が一
致するようだと思いました。また、聖娼という言葉を思
い出しました。これは、やはり古代シュメールで、神殿
で顔を隠した処女が、行きずりの旅人と交渉をもつ、大
人になるための儀式のことです。『源氏物語と日本人』
には、「聖娼の体験は、娘が死んで成人の女性として再
生する、死と再生の体験だった」とありました。《接吻》
の絵のふたりは、金の色をとおして融合しているようで
す。けれども、それは死に近い瞬間を色彩で表現したも
のなのかもしれません。男の衣服と女の衣服は、ふたり
の肌のように、くっきりと生として分かたれているので
すから。
 いまは、バタイユの『エロティシズム』(ちくま学芸
文庫)を読んでいます。ちょうど《接吻》を見てずっと
後に読んだ解説が絵を照射してくれたように、『マダ
ム・エドワルダ』も、『エロティシズム』の言葉が照ら
してくれるのでした。「極限的な快楽と極限的な苦悩と
の一致、存在と死との一致、この光り輝く展望に達して
完了する知と決定的な暗闇との一致」を笑いとばすこと。
「卑猥さが原因の笑い(…)だけが切り開く見地に立ち
戻ること」。たとえばこの戻った一致が《接吻》にふれ
るのでした。死をもふくんで。「私たちを滅ぼすこの死
の展望においてしか、恍惚に到達することができないの
である」。そして《接吻》から少し離れて。あるいは近
づくために。バタイユによると、わたしたちの生のあり
かたが不連続性だとしたら、「死は存在の連続性を露に
示す」ものとしています。恋人たちが(あるいは不連続
な人間たちが)永遠に結合したいとどこかで願っている
ことを、死は瞬間垣間見せてくれるのです。「エロティ
ックな行為は、これに関わる者たちを溶解し、彼らの連
続性を顕現させる」。死は不連続性に対して、連続性を
見せる、つまり暴力としても語られています。「彼女の
秘密を知りたいとじりじりしながら、彼女のなかで死が
猛威をふるっていることを一瞬たりとも疑わなかった」
「真実が心臓に突き刺さるのが分かるとき、死も一緒に
やってくる」(『マダム・エドワルダ』)。それは暴力とい
う意味でも、笑いにも通じるのでした。「笑いは、事物
を日常生活の文脈から切り離して、宇宙的リズムに置き
換える最も身近で有効な手段である」(山口昌男『道化
的世界』ちくま文庫)。切り離すその瞬間の異化は、つ
ねに暴力をふくんでいるものだからです。「道化的行為
の根底にある志向は、絶えず、日常世界の中において可
塑性の高い、言語及び肉体表現を、想像力を媒介にして、
異質の次元に置き換えて、宇宙的リズムをこの世界に導
入するきっかけをつくることにある。(…)詩的言語が
道化の身振りと切り離すことの出来ない所以である」。
これは、日常にほうりこまれた暴力、非日常でもあるで
しょう。そして性行為(エロティシズム)も、日常のな
かでは表に出ることのない行為として、非日常の側にい
るのです。
 《接吻》からわたしは離れているでしょうか。融合す
れすれのふたりの肢体は、異化としてのふいうちの姿で
もあります。
 ふいうち。それが必然の外から立ちあらわれるものな
らば、恋も暴力の一種です。「男女の愛は、(…)常識、
理性、自我の世界を砕いてしまい、「肉体としての私」
をあぶりだしてしまう。(…)男女の愛は、「開かれた世
界」の神秘的な響きあいに属し、一目で了解しあう磁場
の中にある」(中村文昭『諸註という書物』えこし文庫)。
それは世界を砕く宇宙的リズムの場、闘いの場でもある
でしょう。「言語活動とは熱い最初の場面だ。ついには
生体的な死を全面的に癒すオルガスムの死を求めるあの
闘いなのだ。だからこそ、求めている言葉が見つかった
ときの表情は、女性の顔でさえも、男性の射精のカタス
トロフィックな噴出にあんなにも似ているのだ」(『舌の
先まで出かかった名前』)。そして見つかった名前の手前
の静けさ。つまり、生、聖、性、静。
 わたしは《接吻》から離れてはいないにしろ、あの付
帯物たち、というより、これらがひとつひとつ波紋だと
したら、あちらの波紋、こちらの波紋、にと眼うつりしす
ぎているかもしれません。あるいは《接吻》という水
にあなたを、わたしたちを、映し、かさねているのでし
ょうか。わかりません。けれども、この言葉が見つ
かったときの「女性の顔」は、まぎれもなく《接吻》の女性
の満ち足りた、母的な、融合と乖離の表情です。あるい
はクリムトの他の作品、ゼウスが金色の雨になって降り
注ぐなかに胎児のような姿でねむる《ダナエ》(一九〇
七─八年)の表情でもいいのです。胎児という生に注が
れた死のちらめき。あるいは敵将の首を切り落とした《ユ
ディト》(一九〇一年)の恍惚の表情。かれら、わたし
たちはとても静かです。
 『マダム・エドワルダ』が、次にくる覚醒の時、音た
ちのあふれる時をたえず意識し、絶望しているように、
この表情の静けさ、この《接吻》も瞬間、でしょう。な
ぜなら、聖─性は、日常では長く生きのびることができ
ないから。生きのびようとしたら、それはすぐさま日常
になってしまうものだから。ふいうちは長いこと持たな
い、それは終わらなければならないのです。「死もまた
宴のひとつだった」(『マダム・エドワルダ』)。わたしは
日常をおとしめようとしているのではありません。日常
と非日常の密接なつながり、その均衡のことも承知して
います。暴力、笑い、宴だけが存在することはありえな
いのですから。「不条理の詩的構成が再び新たに衝撃(喜
びや怖れ)を与えるためには、新たな素材の流入、日常
言語の清新な諸要素の流入が不可欠になる」(『道化的世
界』)、流入する先はなければならないのです。いいえ、
ちがうかもしれません。「詩は、人を、エロティシズム
のそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明確に分離
している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合す
る所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。詩
を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽と
一緒になった海なのである」(『エロティシズム』)。わた
しはこの融合の場を《接吻》に見ています。永遠を、永
遠と瞬間を。《接吻》するふたりが、岬の突端のような
場所にいます。この突端もまた接点であり、境界なのか
もしれません。わたしはなにをいいたいのでしょうか。
《接吻》にあなたをかさねていると書きました。だから
こそ、この瞬間の接合を少しでもひきのばしたい、と思
っているのでした。介する詩の時をひきとめておくよう
に、不条理の詩的構成が、日常にその比重を増してゆけ
るように。そのこともふくめて、苦悩について、バタイ
ユはいっています。「この連続性は到達困難なものであ
り、無力さと震えのなかでの追求にかかっている」「唯
一苦悩だけが、愛する相手の完全な意味を明らかにする
のだから」。わたしは均衡をうべないながら、恋をひき
のばしたいと思っているのでした。長方形の刻印、まる
い、らせんの誘導。《接吻》のふたりから、花であふれ
た岬の下に、金色の雨のようなしずくがながれてゆきま
す。《ダナエ》におけるゼウスの射精のように、あるい
は言葉からどうしたってこぼれてしまうものたちのよう
に。ラテン語の「lingua」には「舌」「言語」「岬」の意
味があるそうです。それ以上はゆけない際。それ以上は
語れない、引きのばせない場所。岬の下には、死も口を
開けているのでしょう。つまりあなたに口づけをしたい
のです。なんどでも。ながいこと。名づける行為からも
逃れていってしまう、金色の精子、生死、静止、聖止、
性死。わたしは言葉あそびをしているのではありません。
「詩(ポエム)とはこの喜びだ。詩は見つかった名前だ。言語=舌(ラング)
との一体化が詩なのだ」(『舌の先まで出かかった名
前』)。わたしたちは会話もなく、《接吻》しているので
した。とても静かに。
 それではまた。岬で。


雁信=手紙。漢の時代、絹に書いた手紙を、雁の足に結んで送った故事から。雁帛とも。




初出:『洪水』(アジア文化社)2007年1月


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