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※雁信=手紙。漢の時代、絹に書いた手紙を雁の足に結んで送った故事から。


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雁信E

重なる虫の灯──ガレとジャポニズム



 先日はお会いできて、とても嬉しかったです。今日は、虫とウミウシめずる姫(?)であるあなたに、「ガレとジャポニズム展」(二〇〇八年三月二〇日〜五月十一日、サントリー美術館)のことをお伝えしたくてお手紙しました。以下レポート風に。
 この会場には前回のロートレック展の時も来ているのですが、中の雰囲気は、その時とは大分違っていました。ガラス器や陶器の展示ということで、総じて照明が暗いからでしょう。ケースに収められた作品たちが、台の底からライトを当てられ、照らされているのですが、それがガラス製ですと、まるでランプのように見えます。暗がりに点在する灯りたち。特に曲がり角や通路の真ん中に一点のみ置かれた作品は、夜の海に点在する、小さな島の灯のようで、ここちよい空間を醸し出していました。虫のようなわたしたちが島から島へと渡ってゆく…(鳥ではなく虫である理由は、おいおいわかって下さるかと)。こうした照明の効果は、緻密に計算されているのでしょう。繊細な質感が浮かび上がります。ガラスの中裏に描いたものを表面から透かしてみる作品では特に、その効果を伝えてきます。まるで、こう見えてほしい、こう見てほしいという作者の想いをくみ取っているようでした。家にあったとしたら(というのは、元々これらの作品は、花器、皿などで、室内で使われることを前提に作られているからなのですが)、ここまで質感を美しく見せることは難しいのではないかとも思いましたが、それは違うのかもしれません。昼のカーテン越しの陽射しによって、夜の灯りによって、時間と共に変化してゆく器たち。
 出品は、エミール・ガレ(一八四六―一九〇四)の作品が中心で、他の作家のものは、当時の傾向を参考するため、あるいはガレが参考にした日本のものに限られています。そして、“ガレとジャポニズム”ということで、ガレの中でも、特に日本的なものが出品されていました。《花器「鯉」》、《鉢「蓮に蛙」》、《花器「草花に蝶」》、《煙草入れ「獅子の煙草入れ」》、《素描「梅に鳥」》、《掛軸「雪中松に鷹」》、《花器「富士山」》、《花器「竹」》。ざっと名前を連ねただけでも、日本的だという、その雰囲気は伝わるのではないでしょうか。《花器「魚籠」》(一八八〇年代)は、編んだ魚籠そのものを模した茶色の陶器に、暗緑色の海草が這うように付着しています。ガレが魚籠に目をつけたことに驚きました。また《折り紙形花器「富士山」》(一八七八年頃)でも、富士山や桔梗、蝶が描かれた陶を折り紙に見立てて、屏風のように折れているのが、珍しく思え、興味をひきました。多分ガレには、魚籠や折り紙が珍しく、面白いものとして映ったのでしょう。その新鮮な驚きが伝わってくるようでした。
 けれども、今挙げたものは、出来上がった作品に対して、こういうのは気がひけるのですが、習作的なものだと思いました。わたしの知っているガレらしさが薄いような感じがしたのです。それは濃厚な草の香り、あるいは誘蛾灯の暗さを秘めた香りのようなものなのですが、そうした香りを殆ど放っていないような気がしたのです。カタログによると、一八六七年のパリ万博で、二十一歳のガレは初めて日本美術に触れています。一八七一年のイギリスでの万博を機に、日本美術の収集を始め、一八七八年のパリ万博で、自ら作ったジャポニズム的な作品を出品します。「この頃のガレのジャポニズムは、(…)装飾を、形態を、そのまま写す段階に留まっている」。これは実感としてもわかると思いました。対象のスケッチから始めるように、模写から始まるのです。外観どおりに写すこと。対象との出会い、対象との対話はいつもそこから始まるのです。ガレはそうした模写時代を経て、虫や鳥などの小動物たちとの距離を徐々にせばめてゆきます。この後の展示作品を見ていた折にも、何となくですが、そう感じました。あるいは、距離があったとしても、その距離をせばめる意志のようなものが、会場を進んでゆくうちに作品から伝わってくるようなのでした。
 ガレも好んでモティーフとして使った蝶や蜻蛉、虫たちは元々ヨーロッパでは「人よりも劣る存在として、美術品にはあまり登場しなかった」のですが(こうしたことを聞く度、神を頂点としたヒエラルキー的な考えの浸透について思いを馳せてしまいます。それは日本人には馴染みにくい考えでもあります)、日本美術の影響で、彼らはそうしたものたちへ目を向けるようになったそうです。ガレの蝶や蜻蛉は、徐々に模写をくぐりぬけ、自らの作風へと、昇華してゆきます。日本との対話の可能性を秘めながら。
 そうしたガレ作品の登場は、一八八九年頃からです。この年、またパリ万博がありました。そこに出品された《蓋付杯「アモルは黒い蝶を追う」》は、「悲しみの花瓶」シリーズだそうで、黒っぽいガラスに、弓矢を持ったアモル(エロス)が、プシュケ(霊魂)の化身の黒い蝶を追っています。そして題名どおりの言葉がガラスに彫られています。これなどはギリシャ神話を取り込んでいるからばかりではなく、もはやジャポニズム的とはいえないものです。とはいえ蝶によって、西洋的なものと、日本的なものの対話はなされています。けれどもそこには肉体と精神の対話の物語が絡み合ってもいるのです。肉は心を追う。こうして凝縮した手招きとして、暗い色調の「悲しみの花瓶」は、鮮やかな花を求めているのでした。一八九〇年の《花器「翡翠」》は、淡黄色、淡青色のガラスに、コウホネ、オモダカなどの水辺の花とカワセミが描かれています。これは一九〇〇年の《香水瓶「沼地」》の深い緑の瓶に、貝が乗っている姿や、一九〇〇年頃の《花器「貝殻・海藻」》の貝が付着した、海から引き上げられた古代の壷のような姿と重なります。一九〇四年の《花器「海ユリ」》の海ユリとは、ウニやナマコに近い生物だそうです。ガレは水中の生物と花を合体させたその姿に惹かれたのかもしれませんが(あたかも和洋の出会いのように)、水を湛えていることで《花器「翡翠」》と通じます。それは潜ることといった繋がりによるのかもしれません。翡翠やオモダカなど日本的なものをモティーフにしているにせよ、彼独自の水世界としてわたしたちに語りかけてくるのでした。コウホネは海ユリや海藻とともに、彼に直に響いてくることがあったのでしょう。それは、あくまで彼が自らの中での響きに耳をすませた結果なのです。まるで水琴窟のようです。そういえばコウホネは河骨と書きます。水底に埋まった根が骨に似ているからこの名がついているそうですが、なにか水に、そして潜ることで繋がるようでもありました。
 ジャポニズム云々を抜きにして、心惹かれたものも数点ありました。《花器「茄子」》(一八九〇─一九〇〇年)は、細い頸が茄子のヘタで緑のガラス、胴が茄子の実という形態で、ガラスの黄色い実に、薄紫の茄子の花が描かれています。茄子の実に花を描くことで、茄子という存在を実に集約、凝縮しているのです。そこには時間までもがたたまれてあると思いました。茄子の花は、小さなユリのようです。ナスの楚々とした美しさをも、この作品はわたしに気づかせてくれました。《花器「蜉蝣」》(一八九九─一九〇〇年)は、コップのような形で、器の内側にカゲロウ、外側にもカゲロウを飛ばせ、立体感を出しています。単独で展示されていました。島のようなガラスケースをぐるりと周ります。角度によって、光の加減で見え方が違うのです。羽根が光でふるえ、本当に飛んでいるようなのです。そこからは水辺の波紋、ふるえる空気すら感じられるのでした。カゲロウははかない命の象徴ですが、彼はそれを知っていたのでしょうか。多分。生命をいとおしむ、いつくしむ感触が、静謐さを湛えて、そこにあったと思うのです。《脚付杯「蜻蛉」》(一九〇三─一九〇四年)は、大理石の質感をもつ白濁したガラスに、蜻蛉が立体的に浮き彫りにされているのですが、表の羽部分に内側から茶色い色が影のように重ねてあるので、やはり角度によって、光によって見え方が変化します。ガラスの裏側に、蜻蛉をかたどった文字で、“Galle”と彫られています。最晩年の作品だからでしょうか(数十個作られたこれは、形見として近しい人に配られたそうです)、なにか痛いような哀しみを湛えているといった印象を受けました。ガレは蜻蛉を特に好んだそうです。ある作品には、「うちふるえる蜻蛉を愛する者 これを作る」と彫ったそうです。日本では、勝虫、益虫として、またアキツシマと称して、武家や貴族に親しまれてきた蜻蛉ですが(実はこうしたことを、わたし自身はつい最近まで知らなかったのですが)が、ヨーロッパでは、不気味な不吉なものとして、むしろ忌み嫌われていたそうです。この展覧会では、〈ガレと「蜻蛉」〉という室を設けて、机、カップ&ソーサー、小物入れなど、様々な蜻蛉を見せています。ここでもガレの蜻蛉に対する並々ならぬ思いが窺えましたが、蜻蛉は、彼にとって混沌とした生として映ったのではないかとふと思いました。それは、日本的な親しまれ方と、西欧的な不吉さを併せもった両義的な存在として、彼に映った、だから惹かれたのではないか、そう思ったのです。その融合の存在を受け入れようとすることは、日本と西欧の接点に立つことであるかもしれません。ヨーロッパ人としての彼が、自らのアイデンティティーを保ちながら、他国の文化と出会った、ある種融合への願いの証し。その意味も込めて、蜻蛉に自らの姿を重ねていたのではなかったかと。こう考えると、自らのサインを蜻蛉に模していたことは象徴的です。ともかく《脚付杯「蜻蛉」》は、混沌とした生として、痛ましくもそこにありました。それはプシュケとしての蝶、はかない蜉蝣をも併せ持った姿として、不安げな色彩とともに、照らし出されていたのでした。
 ここまで書いて、ガレの蜻蛉は、わたしが蜻蛉に抱いてきたイメージとは全く違うと気づきます。わたしのそれは“トンボ”です。童謡「赤とんぼ」の世界であり、夏の暑さのなかで、立秋のように秋の訪れを告げてくれる者であり、トンボの眼の前で指を回し、捕まえることができるかとどきどきした、幼少の記憶を共有してくれる者でした。彼らは、勝虫やアキツシマとも全く違って、わたしに親しい者としてずっと存在してきたのです。この“トンボ”を、会場ではまるで思い出しませんでした。まるで、目の前のそれがトンボではないかのように。それはドラゴンフライであり、蜻蛉でした。いや、なにか新しい接点としての虫でした。多分、わたしのそれは接点であるよりも、もっと自らの側に、親しく食い込んでいたのでしょう。その接点の側からは、渇望のように、“トンボ”を求めていたのかもしれないのですが。それはどちらにせよ、蜻蛉を大事に思っている、ということですから。
 ジャポニズム云々を抜きにして、と書きましたが、結局その近辺に戻ってきてしまいました。まるで島の灯めがけて浮遊する、蝶や蜻蛉たちのように。そういえば一つだけぽつんと置かれ、本当に離れ小島のようなガラスケースに《ランプ「ひとよ茸」》(一九〇二年頃)がありました。暗がりに生える三本の茸たち。赤い笠が光っています。それは明るすぎず、まるで地下の暗さを知っているかのような灯りでした。誘うような明るさを前にして、わたしはその場を離れがたくなっていました。そう、まるで虫のように、灯りを放つその島に釘付けになっていたのです。蜻蛉に自らを重ねること。
 《海百合》の絵葉書を同封します。ウミウシの仲間ということで、何かが重なってくれたら嬉しいのですが。またお会いできますこと心待ちにしております。ガレの香水壜に似たあの小さな鼻煙壺、ぜひ拝見させて下さい。



(初出:『洪水』vol.2)

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