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雁信F
想像=物語が共鳴する

――Ian McEwan Atonement




 ご無沙汰しております。今日はイアン・マキューアン『贖罪』についてお伝えしたくお手紙いたします。ほぼ偶然なのですが、映画『つぐない』が公開される数日前に小説を読み終えました。“ほぼ”といったのは、その前に彼の他の小説『愛の続き』『アムステルダム』等を読んでいて、次に何か彼の本をと思って手にしたのが、映画公開にあたり文庫化されたばかりのこの本だったわけです。これは、想像と現実の間に横たわる距離、あるいは小説と現実、そして人と人の間、それらの距離を扱っているといえるかもしれません。その距離を渡る努力が、贖罪であるかもしれないし、恋愛に限らない愛であるかもしれない。「贖罪」というのは、現実で犯した罪を小説を書くことで償えるのかということでもあります。ともあれ久しぶりに物語に感動しました。この感動もまた、物語(想像)と現実をつなぐ、距離を響いてくれる何かになるのだろうかと思ったり。
 いつもなら粗筋を紹介し、そのまわりを巡るように内面のざわめきを書きつらねていくところなのですが、わたしの何かが、『贖罪』という小説を直に読んで欲しい、そう告げてくるのです。俗に言うネタバレをしてしまうと、あなたが小説を読んだ際に、何かが半減してしまうと思うのです。ここには丁度、「物語という背骨が必要」だという箇所があります。「単純明快な語りの筋が通っていたなら、われわれの注意力はより効果的に引きつけられ」るのだと。ただ、語りの筋の大切さは、こうして感想を伝える際にも、ひっかかってきます。筋に沿ってでないと、関連がわかりづらいでしょうから。それでも可能な限り、筋(結末に比重がかかっていますが)を紹介しないでゆきます。個々の描写のもたらす共鳴は、筋と密接すぎるつながりを持っているので、筋だけを抜き取ると、響くことが損なわれてしまうと思うのです。どの小説、映画も、語りの筋と密接な繋がりがありますが、あらかじめ知ってしまうことにで損なわれる度合いがより大きいものがあります。その意味では推理小説と共通点があるかもしれません。映画『つぐない』のパンフレットでも途中までしかストーリーを紹介していません。ともかく何とか書いてみます。それでもあなたに何かを伝えたいと感じています。とても。
 映画も観ましたが、思ったよりもずっと小説に忠実で、映像ならではの創意があり、印象深いものでした。「十三万語の小説を二万語の脚本にする」のは、映像の助けがあるとはいえ、困難な作業ですが、ほとんど成功していると感じました。特に映画で興味深かったのは無言の豊かさです。行間から押し寄せてくるような、背景、表情、仕草たち、物言わぬことたちの効果的な使い方。けれども映画からの感銘の大部分は、語りの筋の確かさからきていて、わたしはその背骨から感動を受けていると思い知らされもしたので、基本的には小説に比重を置きつつ書いてみます。
 では筋を少しだけ(仕方なく)。一九三五年のイギリス。上流階級の家の次女、小説家志望の少女ブライオニー・タリスが、姉のセシーリアと、幼なじみの庭師のロビーとの諍い、愛の営みを目撃し、姉が苦しめられていると誤解し、姉妹の従姉をレイプしたロビーを目撃したと、無実の罪に陥れてしまいます(ここまでは一日の出来事です)。そのまま舞台は第二次大戦へ、刑期を短縮させるためにロビーは戦場に行き、セシーリアは“ロビーを見捨てた”家を捨て、看護婦として働きながら彼の帰りを待ちます。そして十八才になったブライオニーも、犯した過ちの重さに気づき、姉やロビーが行ったようには大学に行かず、見習い看護婦として働きます。
 小説では(ほぼ映画でも)、ブライオニーを主人公にした記述、セシーリアの、ロビーのと、それぞれ分けて書かれています。ここで気づかされたのは、事実(真実ではありません)は、見る者によって変化するという当然のことでした。それはロビーという人物の見方の違いにも表れています。セシーリアにとっては愛する人で、彼女の母親にとっては、自分の息子(セシーリアたちの兄)よりも出来のいいのが癪な使用人の息子、ロビーの母親(父親は蒸発していて、二人暮らし)にとっては、優しく優秀な自慢の息子、そしてブライオニーにとっては破廉恥漢の悪者。また同じ人物ですら、時間の経過によって見方が変わります。セシーリアにとってロビーは(お互いにとってですが)、その日、愛しているのだと気づくまでは、喉にささった魚の骨のような、やっかいな相手でした。ブライオニーには、ロビーは初恋の相手でもあったのです。ともかくわたしたち、わたしという人物も、各自によってそれぞれ違う存在なのだ、それぞれもまた違う考え方をするのだということを思い起こさせてくれました。物語の受取り方も千差万別なのだということも。
 では物語とは何でしょうか。ブライオニーは、「物語においては、願いさえすれば、紙に書きさえすれば、世界のすべてが可能になる」と、創作をしてきました。それは「おとぎ話のお城や王女さま」の世界でした。過ちを犯したその日、姉とロビーの不可思議な行為を目撃し(この時点で見られたそれは、花瓶の奪い合いという、たわいないものです)、「おとぎ話ではなく、これこそが現実の大人の世界」なのだと啓示のように理解し、今までの世界のゆらぎに興奮します。「自分が知っている普通の人々のあいだにも何らかの交渉が行われていること、ある人間が他の人間に対して権力をふるいうること」として、(おかしな言い方ですが)彼女の物語世界の中にリアルに響いてきたのです。それまで従姉の両親の離婚も、不在の父親も、新聞やラジオで語られる情勢も、物語になんら響いてこなかったのに。そこから物語の大事な定義を発見します。「自分の精神と同じく生き生きとした個々の人間精神が、他人の精神もやはり生きているという命題と取り組みあうさまを示せばいいのだ。人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけでなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ」。けれども、「錯誤や誤解が不幸を生む」と理解したにも関わらず、彼女はその数時間後に錯誤や誤解により、恋人を引き離すという罪を犯してしまうのです。なぜでしょうか。それは物語作者としての殆ど神のごとく全的な支配力が、現実世界に侵入しうるものだと、錯覚したからかもしれません。「世界のすべてが可能になる」と、物語の力を、作者の力を過信したのかもしれません。彼女は、姉にあてたロビーの手紙を殆ど悪びれなく盗み見てしまいます。まるで彼らが彼女の物語の登場人物で、見ることが作者の権限であるかのように。それは物語と現実の間の約束事を踏みにじる行為です。彼女は、現実の彼らがリアルであるということと、物語のリアルさを混ぜこぜにしてしまったのです。理解しそこねるとは想像力の欠如によります。これについては、武田将明氏の解説が印象的でした。「否定されるべきは物語を生む想像力そのものではなく、むしろ想像力の不足ないし欠陥なのだ。危険な幻想を打ち破るのは、より多彩で寛容な想像力である」。少し脱線しますが、マキューアンは九・一一テロの折、「他人の身に自らを置くとどうなるか想像することは人間性の核である。それは同情の本質であり、道徳の始まりである」と書いています。また小説『黒い犬』では、強制収容所を訪問した語り手に、「悪を目の前にして見て見ぬふりをする想像力の病弊」と言わせています。想像は嘘にもつながります。本当に諸刃の剣なのです。ロビーがレイプ犯として連行されるとき、ロビーの母親が「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!」と、連れ去る車の行く手を遮って叫びます。それはその場にいた全ての人物に向けた慟哭のようでした。母親は無論ロビーを信じています。けれどもここには、その夜もいつものように家に帰ってくる筈だったということも含んでいたように思えるのです。そして「嘘つき!」は、寝室にいたブライオニーにも聞こえます。レイプ犯にしたてあげた、いわば嘘の物語を作った彼女に。けれども人は何としても想像しないといけない、物語を作らないといけないのです。そうしないと、わたしたちはみずからの殻のなかでのみ生きるもの、リアリティの欠如した、愛のない存在になってしまうのでしょう。それは圧倒的な孤独でもあります。
 贖罪についても語りたいと思うのですが、その前に小説と事実について。ロビーとセシーリアの物語、ブライオニーの物語が語られてゆき、三部の終わりで、ブライオニー・タリスと署名があります。これもひとつのネタバレになってしまいますが、わたしたちはブライオニーの小説を読んでいるのか、マキューアンの小説を読んでいるのかわからなくなります。そして真実(があるとして)はどうなのか。ブライオニーにとっての現実と、小説における筋とは違うのか。あるいはマキューアンという作者と、現実との関係は。ともあれ作者ブライオニーの小説世界と、現実世界(マキューアンが小説の中で書いた現実世界)について書いてみます。署名には、「ロンドン、一九九九年」と書かれています。それに続いて一九九九年の彼女の状況が、一人称で書かれます。『贖罪』を書いた老年の小説家ブライオニー、彼女はもはや、小説と現実のあいだを混濁させることはありません。「物事の結果すべてを決める絶対権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか? 小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き存在はない。小説家にとって、自己に外部には何もないのである。なぜなら、小説家とは、想像力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない─たとえ無神論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ」。
 ただし署名の前の彼女の物語は、「贖罪の原稿であり、書きはじめる準備はできていた」で終わっています。勿論現実に対して、小説は贖罪できないことは知っています。現実は現実として償なわなければならないことを。小説とは考えうる限り正しく想像された限界の中での出来事であって、現実とは一線ひかれたものなのです。だからこそ小説世界は、生き生きとわたしたちに食い込んでくるのです。リアリティをもって。「人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ」。現実に対する償いが小説のなかで行われうるものなら、もはや間違った想像、自己憐憫として内に向かった妄想にすぎないのです。それでも『贖罪』を書いているのだとしたら、それは贖罪ができないことのまわりを歩くこと、あるいは彼らを記憶することでもあるでしょう。忘れないこと。マキューアンは、やはり九・一一テロの際、被災した人々が、妻や夫や恋人たちに例外なく「アイ・ラブ・ユー」とうメッセージを遺したこと対して、「そこにあるのは愛だけ、それから後は忘却だけだ」と語っています。
 ここで映画について触れてみます。映画のブライオニーは、長らく『贖罪』を発表しなかった理由として、「意味がないような気がしたから」と言っています。小説では、それまでに五稿まで書き直していますが、登場人物がすべて実名で書かれている関係で出せなかったのですが。「裁きをつけるために書いたこの回想記は共犯者たちが生きているかぎり出版不可能なのである」。映画はこの点だけ腑に落ちませんでした。意味がないというのは、つぐないは小説では出来ないと言いたいのでしょうが、書き続けたことからずれてしまうのです。それでも想像しないといけない。実名で、というのも意味深いことです。それは小説と現実の境界ぎりぎりの行為です。それは贖罪すれすれの行為に見えます。償いはできないと言いながら、一九九九年まで書き続けていることが、そうであるように。
 小説と現実の境界ぎりぎり、というのは、かなり詳細に一九四〇年当時の状況を調べたことにも当てはまります。フランスからのイギリス軍の撤退、病院内での出来事。小説では(映画でも)これらの描写が克明です。特に、ロビーが撤退の際に見た無惨な死体、看護婦ブライオニーが死に水を取った若い兵士…。これらは架空の人物で、その意味では想像なのですが、こうしたことが現実にあったと、彼らがどのように感じていたか、それを現実に伝えてくれるのは、物語だけなのです。その意味では、その限りでは、物語は絶対に現実なのです。想像力の共鳴たち。
 解説では、「「贖罪」の原語“atonement”は、「つぐない」のほか、「他者とひとつ(at one)であること」や「和解」も意味する」とありました。わたしたちは他者とひとつには決してなれませんが、共鳴することは可能かもしれない、そんなこともあらためて思いました。あるいは『贖罪』は愛の小説でもあるのだと。他者との距離をさぐること、ひとつになろうとする意志もまた愛ではないかと。忘却しないこと。筋を伝えないことにしたのですから、ここでは、ブライオニーは姉のセシーリアとロビーを、それでもとても愛していた、だからこそ『贖罪』を生涯に渡って書いたのだ、とだけ書いてこの手紙をしめくくりたいと思います。あなたに何か響いてくれることがあったら、それにまさる喜びはありません。


ARCH

*イアン・マキューアン『贖罪』(新潮文庫)
*映画『つぐない』二〇〇七年/イギリス/〔配給〕東宝東和/〔監督〕ジョー・ライト/〔出演〕キーラ・ナイトレイ(セシーリア)、ジェームズ・マカヴォイ(ロビー)、ヴァネッサ・レッドグレープ(ブライオニー、老年)



(初出:『すぴんくす』vol.6)

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