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切り分けられた壁を近づこう

     ──年鑑時評/2008年現代詩の動向を探る



 「フェルメール展」(二〇〇八年十二月十四日まで、東京都美術館)に行ってきた。フェルメール(一六三二―一六七五年)は三十数点しか作品が現存しないが、そのうちの七点も出展される機会はめったにない。一期一会と出会えることを喜んだ。特に《小路》は、現存する二枚の風景画のうちの一つ。もう一枚は《デルフトの眺望》で、こちらはマルセル・プルーストが『失われた時を求めて』で、死の間際の作家ベルゴットに〔こんなふうに書かなくちゃいけなかったんだ、おれの最近の作品はみんなかさかさしすぎている。この小さな黄色い壁のように絵具をいくつも積み上げて、文章(フレーズ)そのものを価値あるものにしなければいけなかったんだ、庇のついた黄色い小さい壁、黄色い小さい壁〕(鈴木道彦訳、集英社)と言わせた作品。画集で見るかぎり、二枚の絵の建物の壁と、空は似通っていたので楽しみにしていた。さて《小径》。正面から描かれたレンガで出来た建物の間から雲の浮かんだ空が見える。この壁と空なのだとまず思った。ひび割れ、汚れの細部までもたどれる壁、それ自体が息をしているようだ、壁そのものが価値を持ち、雲の多い空から光を受けている。また、洗濯をする女性、道端に座る二人の子供、針仕事をする女性が小さく描かれているのだが、彼らの息吹が伝わってくる、まるで壁、空、人の三位一体となって、絵から溢れてくるようだ。壁だけが価値を持つのではない、全てが価値をもって緊密に生を伝えてくる。こんな風に積み上げなくてはならないんだ…。ベルゴットの言葉がこだまのように響いてきた。
 前置きが長くなっているが、詩がどのようにことばを積み上げたらよいのか考えさせられ、また画を見て作家が我がことを省みることから、絵画と文学の交流に思いをはせた。音楽と詩、短歌と詩、俳句と詩、実在又はあるいは創作の人物へのオマージュ。こうした交流が、何かしら近しさをもたらせてくれるのではなかったかと。ピエール・ガスカールは町、地区という単位について、〔このように空間を切り分けることで、人間は環境について最小限度の知識を得ることができた。それがなければ、人間は自分が実在するという感情も、個人としての独自性の意識も、完全にもつことはできないのである〕(『箱舟』、書肆山田)と言っている。私たちの今の社会は、こうした近しさが見えにくいものとなっている。以下、積み上げられた言葉、そして交流の二つから考えてみたい。
 山佐木進『絵馬』(ワニ・プロダクション)は、例えば地名たち、「駿河」では「砂紗/砂嘴/砂州/砂瀬/砂磯/さ行で並んだ地名たちよ」と、名前を遊ぶことで、私たちにそれらが近づいてくれることを教えてくれる。「働く ということばの原初的な朝が/富士の斜面から/ゆっくり広がっていくようだ」、地名はフェルメールの小道具たちのように、私たちに、はじめから近しい間だったと誘ってくる。「文京 台東 区割り境の/くねくねのかぼそいへび道を行く」の、「藍染川」の小さな流れのように、浸透してくるようだった。積み上げられたフレーズとしての地名が、「おいてけ/おいてけ/たまたまたまの/たましい おいてけ」(「おいてけ街道」)のような言葉あそびを含んだ近づき方が。「明け方に死んでゆく蝉よ/世界はいつも/真っ暗なままでしかなかったのだろう」(「待つ」)。
 江口節『草蔭』(土曜美術出版販売)は、「ほそい板をわたす/ことばの吊り橋」と言葉で近づく、渡ろうとする真摯さが静かで切実だ。「とどくだろうか、と/吊り橋//あの崖を 猿は飛び渡るそうです」(「吊り橋」)、「ときには/蝉のぬけがらみたいな/ことばを/持ち帰ったりするだけなのに」(「さがさないでください」)。或いは「草蔭に 猫が遊んで放った蜥蜴は/尻尾が切れて 固まったままだ」(「草陰」)と、隣人たちの世界を通じての死生の近づき方が。
 大橋政人『歯をみがく人たち』(ノイエス朝日)は、「花はえらいもんだよ/だれが色を塗ったという訳でもないのに」と隣人が言うのを毎朝聞いている。「いつ聞いても/新しい朝のことばだ」(「朝の言葉」)が、「挨拶は大事な無駄である」(小津安二郎「お早う」)を思い出させた。こうした言葉が、現実の壁に食い込み、私たちの壁にそれを差し出してくれるのだ。「春に応えようとしているのに/何をしても春に叶わない」(「春の悲しみ」)、「今日の赤城山が/いちばん正しい赤城山だ」(「正しい山」)。或いは襞の間で交わされた言葉が、私たちのふいをつく。私たちはどんな挨拶をかわしたらいいのかと壁が問う。
 野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を』(書肆山田)は、冒頭に置かれた表題詩かつ序詩のみが、二〇〇七年のもので、後は一九七二年から八一年のものとある。この壁は自らの時間と、フレーズを重ね、そこに他者の時間、時代の影を帯びている。序詩で「まーけっとな淫部ハ俺ガ統ベル」とあり、包括を、合体を夢見るようだ。順に「(pm9:43 優先的選択)(pm8:36隷属原理)(pm7:45 抑制因子)と続くように、時間が逆行している。まるで振り返るように、それ以降に置かれた詩も年代がランダムになる。それは法則から逃れたことから、時代の時間とともに、私たちの時間を呼び込むようだ。「ああセクスはもうそとがわ/記憶の樹はもうそとがわ」(「(そとがわに飢えてか──)」)、逃れたものたちが呼び合う壁。
 新延拳『永遠の蛇口』(書肆山田)は、「ボールが壁に当たる音」から「昭和がそっと立ち上がる」。壁にぬりこめられた時間が、今という時代にあふれている。リカちゃん人形(「永遠の十一歳」の「今年で四十歳」)の「リカちゃんは今日真っ白な手紙をもらう」、そうした時代の上になりたつ今を、静かに見つめ、壁にしたためる。「雲の中で電話が鳴っている/水の底で電話が鳴っている/仏壇の奥で電話ば鳴っている/(中略)/ほら鳴っている/執拗に」(「ずいぶん遠くまで」)、電話は私たちを近づけるのだろうか。「私のケータイのメールを盗み見ているおまえは/青白い光に照らされて亡者のよう」「そう/おまえは私/私はおまえ//私の詩を見たな/私の哀しい詩を/おまえ」(「見たな」)。近づいたそこで、亡者と生者が交錯し、おまえと私がすれ違う。他者の近づくことを切望する、「たくさんの私が観客/砂場の三輪車が倒れたままになっている」(「たくさんの私」)。声が壁からもれてくるようだ。どんな挨拶を交わそうか。
 ケータイといえば、渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』(思潮社)。あとがきには「事件や社会現象をテーマにした機会詩」を連載し、うち十一篇をここに載せたとある。だが、現実をなぞっただけでは勿論なく、詩的な壁を幾重にも塗り重ねつつ、現実の壁としてそこに建っている。詩的な壁こそが、現実と想像を往還するのだ。「(けるけるとケータイが鳴いている/たくさん壊れてたくさん苦しんでるはずなのに/ぼくは(どーも)悲劇がよくわからない/それはフコーなことなんだろーか?」(「けるけるとケータイが鳴く ユリイカばーじょん」)。これは「理由なき殺人」をテーマにしているとあるが、ガスカールの区切られた世界ではなく、広すぎる世界ゆえの希薄になった関係性を、緻密に浮かび上がらせている。「ケータイでメールを送り/かろうじて自分の輪郭を確かめる」(「星の声と」)。ケータイはどこへ向かって鳴るのだろうか。受信した私たちはそれでも痛みを持つのだ。
 松下のりを『忙中閑』(竹林館)は、冒頭に置かれた「命ある風景のまばゆさ」が、「カメラは回り続ける」「ここでカット!」「カメラは一たん方向をかえ/途方もない/死の空間を写し出す」など、カメラを通した世界を描いているためか、「バケツ・石灰・ペンキ罐/はげたシートから貌を出す/日常の/失われた器物」(「気になる家」)なども、カメラとともに言葉がとらえたものとして映り、多重な詩的映像的空間を作り上げている。カメラを通して「鬼と蓮のはざまでゆれる/翳を見ることがある」(「ある風景」)ような、そうした世界が、私たちに引き出され、私たちの翳として、そこに並べることができるかのような、映像とことばでぶれた、二重写し。カメラは、人の目を通して、世界を映し出すことにより、壁を塗りたくるのだと、関係性を濃くするのだと教えてもくれる。日々、私たちに差し出される映像、特にゲームやビデオ(DVD)は、リセットし、停止することで、自在に操作できるものと錯覚されるが、そこに他者との関係性は本来ない。私たちとカメラのありかたを、私たちが映像と関係することで他者と近づきあおうとする壁を、ここでは提示しているようだった。
 次に、交流に比重を置いて見てみたい。今年はこうした近づきが、目についたように思えた。出会いを、関係性のなかで私たちを壁に見つけること。唐突な例だが、リカちゃん人形の世界は、初期(一九六〇年代後半から七〇年代)は、当時のファッション、流行を反映した服装、小道具を作っていたという。サイケ、グループサウンズ、白い家具、歌謡ショーの舞台。だが今は、リカちゃん独自の世界観のみで成り立っている。いわばそれだけで充足し、他者との交流が殆どない、ばらばらになった惑星だ。これは今の傾向ではないだろうか。それは〔切り分けられた空間〕ではない。こちらは隣り合い、それが広い世界を見つめる指標ともなるべきものだ。そう、詩も他との交流が希薄になっているかもしれない。だから、と結論づけてはならないが、私たちは出かけようとするのではないか。壁を隣に近づけるために。
 中村文昭『オルフェの女 蝶、海の貴婦人』(えこし会)は、与謝野晶子、ランボー、中原中也、城戸朱理など二十三人の作品から「主題のためのチャンス」を得たと「MEMO」にある。壁に積み上げられた言葉、交流の間を、蝶が舞う。「──空から蝶 蝶から空をうばう/野蛮な青い夜が透けて見えて」(「黄昏」)。積み上げられたのは、彼らばかりではない、詩人自らの羽ばたきの軌跡でもある。「蝶の内臓は/白く濁る天の川です」(雪?)。すべてが絡み合い、価値をもって生と死を壁にさらけ出していた。
 そしてこうしたインスパイアを特定した、つまり二人による作品集も目についた。『対詩 泥の暦』(思潮社)は、四元康祐と田口犬男、二人の詩人の、連詩ではなく対する詩の“対詩”。手紙のように交わされた詩に、フィクションが混ざり、つまりほころびが生まれ、そこから私たちもまた入ってゆける空間が生じる。『ナショナル・セキュリティ』(思潮社)は、ジャーナリスト北沢栄と詩人紫圭子の連詩。「ソロー?/彼の好きな言葉は/これだ/ろくに統治しない政府が/最高の政府」と北沢が書く、「わたしは眩しく幻視する/ソローの右手を」と紫が書く。ソローを巻き込み、現実と想像と、社会と文学が、交錯しあい、二人から溢れるように発信される。柴田千晶『セラフィタ氏』(思潮社)には、藤原龍一郎の短歌が差し込まれる。詩は派遣OLの社会的漂流、そして愛と愛でないものの間の漂流を通して、私たちの闇を浮かび上がらせると言っていいかもしれない。「逃亡も転落もある社内LANなる暗黒のダンジョンに棲み」(「情事」藤原龍一郎)。「誰といても/眼が乾く(言葉を交わしたい)/(性交したい)」(「セラフィタ氏」)。題名はバルザックの小説「セラフィタ」から採っているのだが、その主人公は女であり男であるアンドロギュノスだ。この狭間から、この漂流から、短歌と詩の交錯する場を通して、〔人間は自分が実在するという感情〕を問うている。
 『鑑賞 女性俳句の研究』(角川学芸出版)は、二十七名の女流俳人の業績の紹介で、それ自体、とても心惹かれるものだが、特に豊口陽子の欄を城戸朱理が書いているのが、俳句と詩の出会い、絡み合いとして印象に残った。「春立つやかすかにものの腐る音」を、「万物の生命が躍動を始める春先とは、死へ向かう一歩でもあるわけで、「かすかにものの腐る音」という詩句は生命の宿命を語るものにほかならない」と書きながら、エリオットの「四月は残酷を極める」を掲げ、句と詩の心底の出会いを、更に浮かび上がらせ、希薄さに立ち向かう、連詩を作り上げていた。
 ひとりで交流を構築している作品も目立ったように思える。壁がまるで、自在に私たちをたたずませ、壁近くを横切らせ、そうすることで希薄になった関係を近づけようとするように。光冨郁也『バード・シリーズ』(狼編集室)は、詩と小説の狭間に言葉が置かれているようだ。「一人でいることに、何年も飽きなかった。シートの、海に伝わる神話を」(「バード」)とはじまる。「ハーピーか」「セイレーン、であるかもしれない」。幻想と現実の狭間でもあり、他者と私の狭間でもある。交流を、実在を。「自分すら他人に思える夜」、「わたし、しかいない浴室で、折った膝を抱える、アクセサリーの球面。」水のなかに、「青白い肌の女」(「サイレンと・ブルー」)が、人魚のように関係を超えて雫をふるわせる。
 詩誌『鰐組』(ワニ・プロダクション)の、村嶋正浩がここ数年「い・け・な・いルージュマジック」「時のすぎゆくままに」「微笑みがえし」「ダンシング・ヒーロー」「風立ちぬ」など、歌謡曲の題名と歌詞を使い、詩と歌との交流を硬質な、緻密なしぐさで図っている。「僕のマリー」(『鰐組』230号)では、「僕のマリー、たましいから離れ水漬く足を乾かして起き上がるあなたは一気に水を吐いて溢れてしまうのですね」と、交流により元歌(タイガース)を取り込んで壁からフレーズを引き立たせるばかりか、「窓越しの柔らかい光が差し込んでくる部屋には牛乳を注ぐ女がいるけれど」と、明らかにフェルメールの《牛乳を注ぐ女》が現れ、歌と絵と詩の織りなす立体的な場を壁から表していた。
 岩佐なを『幻帖』(書肆山田)は、最初に銅版画家でもある詩人が、手許にある写本を「口語訳し手を加え、(中略)そのままをあたかも自分が作ったように見せかけたりして、何冊かにまとめようと思いはじめた」ものだとあり、挿画もあきらかに著者の作品なのにそうではないと匂わせる。詩の始まりも「「序」と思ってほしい部分/<どこまでが「序」なのかは不明>」で、つまりどこまでが嘘でどこまでが本当か、どこまでが現実でどこまでがフィクションなのか、どこまでが絵でどこまでが詩なのか(「鳥のかたちしたおんな神」の挿画と、「鳥のおんなは/鳥の表情でかなしんだ。かなしんでしんだんだ、という風説」のあいだの溝)、どこまでが祈りでどこまでが呪いで詩なのか(「「詩とはこころざしですか」/「実は呪文ですか」/殊に現代詩とは。」、以上タイトルなし)、こうしたあやういゆらぎの場に詩的空間を構築し、ぶれた世界として、関係性を打ちたてながら、多重性をもって空間を差し出してくるのだった。
 他、高貝弘也『白秋』(書肆山田)は、北原白秋について書かれた評論集だが、冒頭に「これら十一通の手紙は、宛名のない手紙です。/(中略)/あなたへ宛てた手紙です。/そしてあなたは、白秋でもあります。」とあり、手紙として〔絵具をいくつも積み上げて〕、白秋との連詩を、いわば私たちとの連詩を掲げて、関係を打ち立ててくるのが優しかった。
 私たちは実在する。フェルメールの黄色い壁が切り分ける壁を、近づきあう接点、、緊密な場として語り合い、語り続けること。



(初出:『詩と思想』二〇〇九年一・二月合併号)

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