独り言

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20 投稿日:2019/11/26
香港の区議会選挙は民主派が圧勝

いつ収まるとも知れない大規模な抗議のデモ活動が続いていた中、世界が注目した香港の区議会選挙は、民主派の圧勝に終わった。

民意は確かに示された。しかしながら、
 −これで“一国二制度”を守れるのか−
こう問われても、簡単に“yes”とは言えないのが実情だろう。

香港政府の後ろで、圧倒的な軍事力を誇る一党独裁の中国共産党政府が、強い睨みをきかせていることを考えれば、立法権を持たない区議会に、何ができるのだろうか。

頼みは、世界の“目”だろうか。

(右は東京新聞11月25日夕刊より)
19 投稿日:2019/11/25
地質学者ナウマン伝

エドムント・ナウマンは、20歳の若さでドイツから派遣されて、日本人に地質学を教え、日本中を隈なく歩いて、日本の地質図を完成させると共に、日本列島の地質構造を解明した、偉大な学者であり、日本にとっての大切な恩人の一人である。

「地質学者ナウマン伝」という本が出版され、東京新聞11月17日朝刊に、この本の書評(下のスクラップ記事参照)が掲載されていたので、この書評を読んで、このたび、この本を購入した。

さて、ナウマンは、日本国内でも批判があったようであり、ドイツへ帰国した後も、あまり評価されていなかったようなのだが、それが何故なのか、小生には理解できないままになっていた。
この本を読んで、その辺りのことを、少しでも理解できたらいいと思う。
18 投稿日:2019/11/23
リンパって何?

リンパ液、リンパ節とかリンパ腺、リンパ管、あるいはリンパ球という言葉はよく見聞きするが、何者なのか、殆ど理解していなかった。

改めて問う、リンパとは何か?

一口で言えば、
 「血液循環、特に静脈系の裏方としての役割」を受け持っている
ということであるらしい。

これで分かったかな? ちっとも分からない。(-_-;)

そんな訳で、まず、言葉から整理しておこう。

リンパ液とリンパ球
毛細血管から浸み出した液体が毛細リンパ管に流れ込んだものを「リンパ液」と言い、液体成分を「リンパ漿」、この液体の中に含まれる有形成分を「リンパ球」と呼んでいる。
実際に働くのはリンパ球で、身体の中に侵入したウイルスや細菌と戦い、変性した細胞を処理する役割を担っているらしい。

リンパ管
リンパ液を運ぶパイプであり、我々の身体全体に張り巡らされている。

リンパ節とリンパ腺
この二つの言葉は、同義語といってよさそうだが、近年では、「リンパ節」が主に使われているようだ。
全身に張り巡らされているリンパ管系の途中にあって、リンパ液の中の異物の混入をチェックし、処分する役目を担っている。全身に600個ほどあるらしい。

さて、全身の毛細血管から浸み出た液体が毛細リンパ管からリンパ管に入り、リンパ管を流れて、鎖骨辺りの静脈に入るらしいのだが、リンパ液はどういう仕組みで流れているのだろうか。
血管系の場合は、ポンプである心臓から動脈→静脈→心臓という循環になっているのだが、リンパ系の場合は、ポンプはなく、循環しているわけではないらしい。

では、どういう仕組みで流れているのか。
どうやら、血管の脈動など、身体の中の様々な動きに促されて、流れているらしい。
マッサージの類も、リンパ液のスムースな流れを助長するようだ。

さてさて、これで分かったかな?
ウーん、分かったような、ますます分からなくなったような、・・・
それでも、何となく、雰囲気だけは分かったような気がしてきたが、・・・ 本当かな? (^^ゞ

(産経新聞2月11日朝刊より)
17 投稿日:2019/11/21
氷川三本スギ

昨日、奥多摩駅から近いところにある、東京都指定天然記念物である「氷川三本スギ」を見に行った。

事前に地図で調べて、三本スギのある「奥氷川神社」に車で入れると思ったのだが、入ることができず、駐車場を探すのに、少々難儀した。
結局、奥多摩駅の奥にある有料駐車場に車を停めて、そこから歩いた。

奥多摩駅を左に見て少し歩き、青梅街道(奥多摩街道)に出ると、右前方に3本の杉が見えたので、直ぐに分かった。

右の写真が、“氷川三本スギ”であり、右側に青梅街道が走っている。
一番上の方で枯れ死んでいる様子が見られたが、これ以上、上には伸びないのかな?
この杉は、“高尾山の飯盛スギ”、“塩船観音の大スギ”と並ぶ、巨木であり、何れも、東京都指定の天然記念物になっている。
一つの根から幹が3本に分かれて、何れも上にまっすぐに伸びている様は、中々に見ごたえがある。



上の写真が奥氷川神社で、左に“氷川三本スギ”が見えている。
この神社に向かって、右側に多摩川が流れ、手前に日原川が流れ、右下の多摩川と合流入している。
多摩川の河原は、“氷川キャンプ場”になっていて、この日も、テントが一つだけ貼られていたが、夏になると、賑やかになるのだろう。

下の写真が、“氷川三本スギ”の説明板である。
左下の方に、何やら背後霊らしき、怪しげなものが映っているが、・・・(^_^;)

16 投稿日:2019/11/20
羽村のまいまいず井戸2

羽村駅東口から、ほど近いところに、まいまいず井戸があった。(右の写真)
五ノ神社の境内の一画にあるように見えるが、隣接地なのかな?
青梅新町の大井戸と比べると、形は同じだが、一回り小さい感じである。
但し、青梅新町より一段低い河岸段丘の上にあって、地形が違うから、地層も違うはずで、こちらの方が、水がよく出たのかも知れない。

下の2枚の写真は、それぞれ、東京都教育委員会および羽村市教育委員会・まいまいず井戸保存会による説明板である。
これらによると、鎌倉時代に既に、“熊野井戸”と呼ばれて、この井戸があったらしいから、かなり古い。
一つ隣の小作駅にある「懐古の井戸」と共に、この辺りに、ずい分古くから集落があったようだ。

関連記事:「青梅新町の大井戸」、「懐古の井戸

15 投稿日:2019/11/19
まいまいず井戸1



我が家から若草通りに出て、羽村方面に向けて歩き始める。
途中、「コープみらい」を少し過ぎたところにあるコンビニに立ち寄って、一休み。
更に歩き続けると、右手に旧東芝工場跡地に建つ工事中の大きな建物が見え、やがて、日野自動車用地を囲む高くて長い塀に沿った道になる。この塀沿いの道をひたすら歩く。

長い塀が終わったところの交差点の、向こう右側にコンビニがある。左側が羽村市動物公園である。
このコンビニで用を済ませ、更に真っ直ぐに進む。
やがて左手に、動物公園の正面入り口がある。

ここで、右へ曲がって羽村駅方面に向かう。
二つ目の信号を渡った右側にスーパー「いなげや」、左側に公園があった。
この公園に入って、昼食休憩。時刻は12時半。
公園で休憩した後、また歩いて羽村駅東口に向かう。

羽村駅東口に着いて、駅を背にして写真を撮る(写真上)。
中央に見える白い建物が「五ノ神会館」で、この白い建物の奥に「五ノ神社」がある(写真右)。

14 投稿日:2019/11/17
鳩に餌をやるな?


上の写真は都心部の某公園で2006年、右は地元のわかぐさ公園で最近、撮影したもので、どちらも、“鳩に餌をやるな”というものである。

かつては、エサをばらまくと、大勢の鳩たちが群がって来て、エサを食いまくる、というような光景が、あちらこちらで見られたものである。
これを楽しみにし、生きがいにしていた人たちも、結構いたのではなかろうか。
こういう光景が、最近はあまり見られなくなった。

鳩を増やし過ぎて、鳩たちがあちらこちらに糞をばらまくという、いわゆる「糞害」が広がって、これに憤慨(?)した多くの人から苦情が寄せられるようになったのだろうが、鳩を増やし続けたのは人間の仕業である。
鳩たちはいま、どうして生きているのだろうか。
時々、我が家や近所の家に侵入してくることもある。
恐らく、公園から離れて、あちこちの民家に侵入して、エサを求めているのではなかろうか。

「ハトを自然に帰そう」などと、尤もらしいことを書いているが、長年にわたって人間に餌付けされ続けてきた鳩たちに、帰る自然など、あるのだろうか。

13 投稿日:2019/11/15
国営武蔵丘陵森林公園3


一昨日の国営武蔵丘陵森林公園の続き。

中央口の広場で昼食休憩の後、もう一度桜とシクラメンの咲いている広場に向かった。
左の写真は、この広場に置いてあった彫刻の一つ。
魔女らしい。足元には彼女の文言が書いてあった。(右)



広場を通り過ぎて、都市緑化植物園に向かった。
途中の林が紅葉の名所になっているのだが、まだまだ緑が多く、紅葉のピークまでには時間がかかりそうだ。

右の写真が、都市緑化植物園にあった皇帝ダリアである。

ここで暫し、草花を眺めた後、園内バスに乗って南口へ。
12 投稿日:2019/11/14
国営武蔵丘陵森林公園2

記念塔(明治100年記念シンボルタワー)を過ぎて、北に向かって更に歩き、中央橋を渡る。
更に北に向かって歩き続けて、途中で右に折れて下り、山田大沼にかかる橋を渡って、正面の山に入る。
少し登り、平らなところに出ると、水生植物の池や彫刻の広場が目に入る。

この広場の片隅に、1本の桜の木が花を咲かせていた。(右の写真)
この公園のホームページによれば、「子福桜(コブクザクラ)」というものらしい。
花は八重になっている。

そして、少し離れた地面に目をやると、シクラメンが群生していた。(下の写真)
鉢植えのシクラメンはよく見るが、地面に生えているものを見るのは、初めてかも知れない。
この場所へは何度も来ているが、思い出せない。
小生が撮った過去の写真も調べてみたが、この場所で撮ったシクラメンは見当たらなかった。



桜の花とシクラメンをしばし鑑賞した後、中央口の広場に下りると、海賊船(?)が待っていた。(下の写真)
いつの間に、こんなものが置かれたのだろうか。
海賊船をながめながら、ここで昼食休憩。


11 投稿日:2019/11/14
国営武蔵丘陵森林公園1

昨夜のプレミア12で、日本代表は全勝のメキシコに何とか勝つことができた。
これで、通算3勝1敗となって、明日以降に望みをつないだ。

さて、昨日は肌寒い曇天の中、埼玉県にある国営武蔵丘陵森林公園に行った。
南口から入って、左側の登り坂を進むと、必ず見かけるのが右の写真のタワーである。
このタワーは、明治100年記念として建てられた記念塔だった。
(下の写真参照)

10 投稿日:2019/11/09
塩船観音の夫婦杉

右の写真は、過日(11月4日)、塩船観音寺を訪れた時に撮影したものである。
ここへは、正月の初詣で、5月のつつじなど、年に数回は必ず訪れていて、その都度、見ているはずなのだが、通り過ぎるだけで、まじめに見ていなかったような気がする。

今回も、まじめに見たわけでもないが、この場所の片隅に置いてあった説明板を何気なく撮っていたので、写真を改めて見直したところ、
 塩船観音の夫婦杉
と呼ばれていることを、初めて知った次第である。(^^;)

09 投稿日:2019/11/06
雷電山と辛垣城跡

2007年1月21日、JR青梅線軍畑駅から雷電山〜辛垣城跡のハイキングコースを歩いた。
この時に書いたブログ記事や写真が残っているのだが、冗長に過ぎて見づらい感じなので、改めて編集し直した。

軍畑駅のホームから裏へ出て少し歩くと、成木方面へ向かう車道に出る。
正面に見える、こんもりした山の右側一帯が、これから歩く雷電山方面の山だろうか。
まずこの車道をしばらく登る。
だらだらの登りの車道をしばらく歩いて、ようやくハイキングコースへの入り口に出会った。

ここからが本格的な登山路になる。
とはいっても、標高500メートルに満たない低山だから、大したことはないはずだが...

しばらく登った後、ようやく、ピークらしいものが見えてきた。(右の写真)
これが雷電山か...と思ったのは大間違いで、この後もまだ、結構なアップ・ダウンが続いた。

何度かのアップダウンを繰り返した後、急斜面を一登りして、やっと雷電山山頂に到着。
海抜標高 494mと書いてあった。

雷電山の山頂は展望がなく、ゆっくり居座る雰囲気でもないので、山頂を踏んだ後、直ちに辛垣山に向かう。

この後も、何度もピークを踏んでは、アップダウンを繰り返さなければならなかった。
中々にタフなコースだった。

雷電山から、やはり何度かのアップダウンを繰り返して、やっと辛垣城跡らしきところにたどり着いた。(写真右)

下の写真は、辛垣山の山頂近くに置いてあった辛垣城跡の説明板である。

この山の山頂付近に、かつてこの地の豪族だった三田氏が立てこもった辛垣城があったらしいのだが、・・・
今では鬱蒼とした森林となっている上に、石灰石の採掘が行われたこともあって、面影は殆ど残っていない。
どの辺りに城郭があったのだろうか、よく分からない。



この城は、三田氏の主城だった勝沼城の属城みたいなものだったと思うが、こんな山の上に城を造って、狭いし、アクセスも大変だったろうし、本当に役に立ったのだろうか、理解できない。

最後に、小冊子「むさしの城ものがたり(前編)」19ページに、この城について掲載されているので、コピーを添付しておく。


08 投稿日:2019/10/29
勝沼城跡(昔の独り言)

2006年8月12日に、勝沼城跡を訪ねた時のブログ投稿記事である。
勝沼城跡1
DATE: 08/13/2006 08:28:39 PM

6月に綺麗なアヤメの花を咲かせて賑やかだった吹上げ菖蒲園の駐車場に車を置いた。ここも、今では訪れる人は殆どいない。

入り口付近の池には、まだ睡蓮の花が少し残っていた。

右の写真は、菖蒲園を正面から望んだもので、左側の山全体が勝沼城跡になっているようだ。

Img_4146 菖蒲園の中には入らず、いったん車道(城山通り)へ出て、上の写真の山をぐるりと右回りに巻いて歩いた。

やがて交差点に出て、ここを右に回ってすぐのところに、曹洞宗妙光院へ向かう道があり、この道に入り、妙光院の正面に出る(右の写真参照)。

妙光院の正面入り口の手前で、左側の道へ入り、坂道を登る。

坂道に入ってすぐのところに、「子育地蔵」があった。
Img_4147 このお地蔵様の隣に立て札が置かれていて、次のように書いてあった。
 「お地蔵さま」ご真言
 おん かかかび
 さんまえい そわか

 三回お唱えし、お参りいたしましょう
−おん かかかび さんまえい そわか−

これを3回唱えてお参りするものらしい。
ウーン、意味がまるで分からん!(~_~;)


勝沼城跡2
DATE: 08/16/2006 10:23:26 PM

子育地蔵を横目に見て、更に歩き続けると、分岐に出る。
この分岐を右へ登ったたところが、三の丸の跡になるらしいが、今では墓地になっている。

左の道を進んで、だらだら登って、やがて登りきったところで、平らな檜林に出る(写真右)。
ここに説明版が設置されていた(下の写真)が、この辺りが本丸だったのだろうか。



これを更に奥へ進むと、木の間から谷が見えるようになる(写真右)。
この谷が吹上菖蒲園として利用されている。

吹上菖蒲園の周囲には柵が張り巡らされていて、菖蒲園へは、正面の入り口以外からは、入れないようになっているようだ。

菖蒲園は今の時期は入場無料なのだから、仕切る必要はないと思うが、どうしてこんなことをするのかな、お金もかかるのに...。

菖蒲園は青梅市、城跡は東京都の管理で、管理者が違うから?
それとも、菖蒲園が有料のとき、仕切りがないと不都合だから?

両方をセットで訪ねたいと思っている訪問者にとっては、甚だ不親切に感じるが...

吹上菖蒲園を外側からぐるりと巻いて、なお歩を進めると、菖蒲園の最奥辺りで、青梅ゴルフ場のコースの一部が見える。

最後に勝沼城跡について勉強しておこう。

参照資料:東京新聞配布資料「むさしの城ものがたり(前編)

07 投稿日:2019/10/29
今井城跡

小生が残している記録(写真やブログ記事)によれば、2005年12月4日に、現地に行っているはずなのだが、殆ど記憶がない。

そういう経緯があって、今月の21日と26日の2回、現地に自転車で行ってみた。
小さい城跡であることもあって、この場所を見つけるのが中々に難しかった。

基本的には山根通りから入るのだが、これが分かりづらいのである。
小生が2回通って、ようやく、3通りの入り方を見つけた。
 @薬王寺への道から入るコース。
 A武蔵野台病院などへの道路標識があるところで入るコース。
 B両コースの間から入るコース。

コース@は、薬王寺の直下にある駐車場に車を停めて、そこから戻って歩くのがお薦めである。駐車場から戻ってしばらく歩いたところで、左前方へ別れる道に入り、少し登り、左手に住宅地を見ながら、道なりにしばらく歩くと、やがて右側に城跡の案内板が見えてくる。
コースAは、上記の道路標識があるところで曲がると、すぐ左が城跡なので一番分かり易いのだが、どこにも駐車場がないので、どこかに路駐するしかない。
コースBは、@とAの間から山に向かって入るのだが、山に向かう道が幾本かあって、どの道なのかが、分かりづらい。正しい道へ入ると、上の写真のような道案内に出会う。このような道案内を置いているところを見ると、これが正規のコースなのかなと思うが、とにかく入り方が分かりづらい。

下に添付した2枚の写真は、現地にあった案内板を撮影した写真を切り取り加工したもので、説明文およびイメージ図である。





小生の本棚の中に、「むさしの城ものがたり」という2巻からなる小冊子があって、この中に「今井城跡」が掲載されていたので、ついでに、添付しておこう。



06 投稿日:2019/10/22
我が家のカマキリ

下のスクラップ記事は、2006年に配布された「アサヒタウンズ」誌に掲載されたものである。

カマキリの産卵場所が高いところか、低いところかで、この冬の雪が多いか、少ないかが分かるしい。
俄かには、信じがたいが、本当のことかも知れない。

そして、交尾のときにメスがオスの頭を食べてしまい、オスは頭を失ってなお交尾を続けて昇天し、一方のメスは産卵に備えてオスの脳を栄養源にしているという。
子孫を残すためとはいえ、オスは哀れな生きものだ。(-_-;)

さて、我が家にも40数年も前から、カマキリが棲みついていて、卵が見つからない年もあるが、カマキリは毎年、挨拶(?)に現れている。
今年も、何度か見ているが、一度だけ、小生の書斎に侵入したこともあった。

右の写真は、2009年に撮影した我が家のカマキリである。

今年はまだ、卵を見ていないが、もう産んだのか、これから産むのか。


05 投稿日:2019/10/19
駐車所場の自動精算機

有料駐車場の多くは、入り口で駐車券を受け取り、出口で料金を支払うような仕組みになっているが、殆どの場合、機械が相手である。
入口ではあまり問題はないのだが、出口で難儀することが屡々ある。
出口の精算機まで、直線になっていれば楽なのだが、カーブのすぐ先に精算機が置かれている場合があって、こういう時に、少々手こずることがある。
精算機への車の横づけが下手で、窓から精算機まで手が届かずに、車から降りで精算した経験もある。

(「JAF Mate」10月号の記事の切り取り)
04 投稿日:2019/10/17
「明治百年記念」の石碑

昨日、霞川沿いにあって、JR青梅線東青梅駅から近いところにある、「大塚山公園」まで歩いた。
この公園は、桜の咲く時期には、賑やかになるのだが、今日は誰もいなかった。

右の写真は、この公園の一番高いところに置かれた記念碑で、正面には、
明治百年記念
青梅市
と書かれていた。
 昭和四十三年は 近代日本の黎明を
告げた明治維新が行なわれて百年目に
あたる意義深い年である
 私たちは この一世紀というきびし
い風雪に耐えて 今日を築き上げた先
覚者の偉大なる努力と英知を高く評価
し これから迎える百年の新たな使命
と責任を痛感するものである
 百年という歳月は 歴史の流れの中
では ほんの一ページに過ぎないが
この年を記念して次の世代に 現代の
市民生活や市政の現況をありのまま伝
えることに意義を感じ この碑の下に
各種の資料を収め 百年後の市民に贈
ることとした
 明治二百年にあたる西暦二千六十八
年にこの資料が公開され ご批判願う
ことを希望し 限りない人類の繁栄を
祈りつつ ここに埋設するものである

  昭和四十四年秋
    青梅市長 石川要三

そして、この石碑の裏には、右のような説明文が刻まれていた。

説明文によると、この石碑の下には、貴重な資料が埋められているようだが、それが公開されるのは、
明治 200年にあたる西暦 2068年
とあるから、まだまだ50年近くも先のことである。
03 投稿日:2019/10/16
車の正面衝突事故(昔の独り言)

以下の記事は、小生がこれまでに体験した、たった一回の交通事故の体験談であり、当時(2006年12月7日)のブログに投稿したものである。
正面衝突事故!
DATE: 12/07/2006 03:43:15 PM

12月2日(土)、月夜見山から下山して、月夜見第一駐車場から奥多摩周遊道路を奥多摩湖方面へ向けて帰る途中のことだった。
周遊道路の途中、左側の急斜面(岩の崖)が工事中で、右側1車線のみの交互通行区間があった。
その場所にさしかかったとき、工事用の信号が「赤」を示していて、残り時間のカウントが表示されていた。残り25秒くらいからだっただろうか。こういうときの待ち時間は随分長く感じる。
残りカウントが・・・3、2、1、0 となって、信号がようやく「青」になった。これを確認して右車線に侵入した。
道路は左の急カーブになっていて、先が見通せないので、慎重に徐行しながら急カーブを曲がる。
・・と、そんなあ〜!、カーブの出会い頭で、反対側からまさかの対向車が目の前に、...向こうの車も、こちらも咄嗟に急ブレーキを踏む。
それでも僅かに間に合わなかった。
 「ガシャーン!」
という激しい衝撃ではなく、無理やり押されて、何かがつぶれるような、
 「グシャーッ!」
という感じの、鈍い音を発して、双方の車がようやく停止した。まさしく正面衝突だ。

とりあえず安全な場所に双方の車を寄せて、110番へ連絡した。幸い、双方に怪我は全くなかった。
相手の車の運転手は20台の若い女性だったが、信号を見つけることができないまま入ってしまったらしい。
相手の車は頑丈そうなクロカン四駆で、殆ど無傷だったが、こちらは右側のライトが破損したほか、バンパー、ナンバープレートなどが傷ついていた。
110番連絡してから35分くらいで、ようやくお巡りさんがやってきて、こちらから事情を説明しつつ、事務的な様々な聴取を受け、ようやく解放され帰路についた。
自宅に戻ってから、保険会社に事故報告の連絡を入れ、翌日ディーラーに車の修理を依頼して、とりあえず一段落ついた。
保険は、どうやら相手の100%補償ということで決着がつきそうだ。

こちらに非は全くなかった(と思う)。
それでも、例えば、身体をぎりぎりに右に寄せて、車もできるだけ右に寄せて、もう少し先を見ながら運転していれば、もう少し早く気づいて、ひょっとしたらギリギリのところで、衝突せずに済んだかも知れない。
あるいは、もっと強くブレーキを踏んでいたなら、衝突は避けられたかも知れない。
幾つか、反省点はあった。

また、工事用の信号機は見つけにくいことも多い。交差点にある一般の信号機と比べて、小さい上に、設置されている位置もかなり違う。
一瞬にして見つけられるような工夫が必要ではなかろうか。
例えば、道路誘導員の格好をした人形を置いて、その頭の上にでも信号機を設置するとか...(^・^)

何れにしても、どちらにも全く怪我がなかったことが、不幸中の幸いだったと言えるだろう。
02 投稿日:2019/10/16
江戸時代にインスタントみそ汁?

いまや当たり前になっているインスタントみそ汁だが、明治時代に既に、軍の携行用として考案され、昭和の太平洋戦争時にも、戦地に持ち込まれていたという。

ところが、その原理は、江戸時代にまで遡るらしい。
 ・やつがしらの茎(芋がら)を干し、一度みそで煮込み、乾燥させておく。
 ・食べるときに刻んで、お湯をかけると、芋がらから味噌がしみ出して、芋がらのみそ汁ができる。
度々あった飢饉に備えるための保存食として、江戸時代の庶民が考え出したもので、これを「みそ芋がら」と呼んでいたという。

我々日本人の先人たちの「生活の知恵」である。本当に素晴らしい。

(東京スポーツ2006年8月18日号の記事より)

01 投稿日:2019/10/10
トウキョウX?

少し前から、街中を歩いていると、食べ物屋さんの前に「トウキョウX」という看板を目にすることがあって、気になっていたのだが、そのままになっていた。
東京新聞10月5日の夕刊に、「トウキョウX」についての記事が掲載されて、ようやく分かった。(下の写真)
青梅市にある東京都畜産試験場が開発した、高級ブランド豚であるという。
ところが、東京都が豚コレラのワクチン接種地域となった場合、かなり深刻な問題に発展するかも知れないらしい。
都知事の小池さんは、ワクチンの接種に積極的になっているらしいのだが、もしそうなったら、東京都の周辺で、非接種地域の中にある養豚農家は、東京からの豚を受け入れることができなくなるようなのだ。
さて、どういうことになるのか、・・・