独り言

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20 投稿日:2019/10/08
八国山緑地の将軍塚

2005年6月12日に、東村山市の北山公園まで赴き、花菖蒲を観賞した後、この公園の北側にある「八国山緑地」まで足を伸ばし、ハイキングを楽しんでいた。
このハイキングの途中に、「将軍塚」と呼ばれる場所があり、これの説明板を写真に納めていた。

かつて新田義貞が、鎌倉幕府を倒す際に(倒した後なのかな?)、この地に一時逗留し、この塚に旗を立てたということらしい。
そして、この塚は古代からあったかも知れないようで、「富士塚」とも呼ばれていたらしいから、富士山信仰の場所になっていたのかな・・・。

説明板には、以下のような内容が書かれていた。
将軍塚
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。
元弘三年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、この時義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された「新編武蔵国風土記稿」には「此二一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。
19 投稿日:2019/10/05
吉見百穴

小生が過去に撮った写真を眺めていたら、2005年5月28日に、埼玉県吉見町にある「吉見百穴」を訪れた時のものが、いっぱい出てきた。
その中の1枚に、この吉見百穴について書かれた説明板を撮ったものがあった。
その説明の内容を下に記しておく。
横穴式の石室
 横穴墓の形態は数種類に分類することが可能ですが、ほとんどの横穴の壁際には10〜20cm程の段が作られています。これが死者を安置した部分で、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示しています。また、横穴墓の入り口には「力泥片岩」と呼ばれる山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていました。この蓋の存在は、横穴に死体を葬った後であっても、再び石室内に入ることが可能であったことを意味します。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」ができるのです。これは古墳時代後期に造営された古墳の石室構造と同じものです。

吉見百穴の時代
 仏教が伝来したのは西暦552年(一説には538年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年〜622年であり、百穴が造られ始めたころとほぼ一致します。仏教が本格的に広まるのは後年のことではありますが、古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することができます。
 また、6〜7世紀は地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力をいっそう強め、日本全体が中央集権国家へと移り変わっていった時期です。西暦645年の「大化の改新」以降、中央集権国家としての国家機構は加速していくことになります。西暦647年には葬送の儀式に関係した「薄葬令」が出されました。「薄葬」とは一言でいえば「簡単に葬ること」で、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を制限した法律です。西暦652年には班田収受法が施行され、豪族の支配していた「土地」と「人」のすべてが大和朝廷の支配下の置かれるようになり、公地公民制が本格化されていきました。
 この「仏教伝来」「中央集権国家の誕生」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのです。

当時これを見た時は、横穴式住居の跡だろう、と思ったのだが、実はそうではなく、それなりに身分のあった人たちのお墓の跡だった。

小生の当時の認識は、この程度で止まっていたように思う。
ところが、よく読んでみると、聖徳太子の少し後に、大和朝廷が中央集権国家としての国家機構を作り、地方豪族たちの権力を制限する中で、このような簡易な墓がいっぱい作られるようになったらしいのである。

そして、
  • 古墳時代後期の石室構造と同じように、「追葬」ができる構造であること
  • ずーっと後になって、太平洋戦争のさ中に、ここの地下に軍需工場が造られ、お墓の一部が壊されたこと
  • お墓の跡の一部に、「ヒカリゴケ」という極めて貴重な国指定の天然記念物があること
等々、いろいろ思い出した。

関連資料:吉見百穴のヒカリゴケ

18 投稿日:2019/10/01
断鳥の思い?(昔の独り言)

2006年2月10日投稿のブログ記事である。
断鳥の思い?
DATE: 02/10/2006 08:46:07 PM
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「週刊新潮」2月16日号のコラム「ワールドインシデント」よりコラムロゴ、見出し、写真を抜粋。
以下上記コラム記事の内容を要約。

イングランド北部都市のリーズで一人暮らしの青年クリス・テーラ君が、雛から手塩にかけてオーム(名前:ジギー)を育て、やがてジギーも8才になった。
ところが、一人暮らしだったクリス君に新しく彼女(スージー)ができて、同棲が始まった。
しばらく二人の熱々が続いたところまではよかったのだが、クリス君が毎日の仕事に出かけている留守の間に、スージー嬢が別の男性ゲリー君を連れ込んで、浮気を始めたのだとか。
ところが、オウムのジギーは、この二人の様子をじーっと見聞きしていて、ことに及んでいる二人の一部始終を覚えてしまったらしい。
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スージー嬢の携帯が鳴るたびに、ジギーは「はい、ゲリー」と間男の名を繰り返したり、ついには「アイラブユー、ゲリー」とか、「ああ、もっと」、「いいわ」などとスージー嬢の迫真の物まねを始めて、止まらなくなったから、たまらない。
この結果、とうとう全てがばれて、クリス君は断腸ならぬ「断鳥」の思いでオウムを手放したそうな。

スージー嬢との関係がどうなったかは、この記事には書いていなかった。
ウーン、たかがペットなどと侮っていると、大変なことになるかも知れない、...
17 投稿日:2019/09/28
ブログ1年(昔の独り言)

小生が2005年1月26日にブログを開始してから、1年が経過した時点で、ブログへ投稿した感想文である。
このブログは、2010年の後半から投稿が減り始め、次第に尻すぼみになって、2012年4月の投稿を最後に、2年半以上も穴をあけていた。
そして、2015年1月に再開したものの、6月で、ぷっつり途絶えていたのだった。
その後、ブログは再開していないが、teacupの掲示板を使いながら、細々と繋いできた。
そういう経過を辿りながら、今年の8月末日に、ホームページ「わかくさ」をオープンしたのだった。

ブログ1年
DATE: 01/30/2006 04:51:46 PM

Blogを作って初投稿をしたのが、昨年の1月26日だったから、いつの間にか、1年を過ぎてしまった。
そもそもBlogを始めた動機は何だったのか。
我が身の脳みそのメモリがいっぱいで、もうこれ以上の新しいデータを受け付けないのか、とにかくよく忘れる(覚えていない?)。せっかく自然に触れて、その場では大きな感動があっても、時間が経つと殆ど忘れてしまう。これではさびし過ぎる。記憶が無理なら、せめて何とか記録でも残しておきたい。
こういうことが動機と言えるが、実は、記録を残しておきたいと思ったのは、今回が初めてではない。何十年も前の、まだパソコンもない頃から、日記をつけようと始めては、いつも3日坊主を繰り返していた。せめて簡単なメモでもいいからやってみよう、と始めてもやはり3日坊主だった。
これだけ昔に遡ると、周りの環境も、パソコン普及→パソコン通信→インターネット普及、という具合に大きく変ってきた。デジカメも急速に普及した。誰もがHPを作れるようになった。
HPを作って、そこに記録を積み上げていけば続くのではないか、とも考えたが、かなり面倒そうなので、二の足を踏んでいた。こういう状況の中で登場したのがBlogだった。Blogについて詳細を調べたところ、はじめに形を作ってしまえば、その後は実に簡単に更新を続けることができる、ということが分かった。これこそが自分の追い求めていたものに違いない、と飛びついて、1年が経過した。
こんな他愛のない(?)動機なので、全く独りよがりの面白みのないブログのはずだ。これを面白くしようという気もない。そもそもそういうセンスが欠如しているのだから無理だ。
多くの人は日記として利用しているようだが、こちらは日記のつもりもない。遊びに行ったり、新聞等の報道などに自分のセンサーにひっかるものがあったとき、素直にメモを残しておく。こんな感じで、力まず、そして背伸びせずに続けていたら、1年経ってしまった、というのが実感だ。こういう無理のないスタイルで1年続いたので、面白みのないBlogだけれども、この先多分、2年でも3年でも続けられると思う。
現在10個のBlogを持てるコースで6個のBlogをやっているが、少々広げすぎたかなと若干後悔している。それでも1年間の合計アクセス数は40,000件を越えている。1日に1万件を越すような化け物Blogもあるようだが、そういうところと比べても仕方がない。少しは見てもらえているらしい、ということが分かれば、続ける気にもなる。
関連記事:ホームページ開設
16 投稿日:2019/09/22
歩行者の立場で(昔の独り言)

13年も前の 06年1月から、「歩行者の立場で」というタイトルの小文を、ブログに15編に渡って連載していた。
小文とはいえ、15編も一度に投稿すると、さすがに長くなるが、小分けにすると却って見づらくなりそうなので、一度に掲載することにした。

歩行者の立場で1
DATE: 01/20/2006 11:15:33 PM

仕事からの帰り、最寄り駅からメイン通り沿いの歩道を我が家へ向かって歩いていた。
歩道沿いの土地には、何カ所かに駐車場がある。その中の一つの駐車場がある場所にさしかかったとき、黒い大きなワンボックスが歩いている歩道を塞いで一瞬止まった。
こちらも一瞬止まる。止まらなければ接触したことは間違いない。せいぜい歩幅で1歩か2歩くらいの距離しかない。
とっさに止まる反射神経はまだ衰えていないようだから、別にびっくりしたわけではないが、一応運転手を睨み付けてやろうと、運転席の方を見たが、暗くて全く見えなかった。間もなく車は車道へ出て走り去った。
その車が去って、歩きながら考えた。
その車の運転手は、こちらを見ずに歩道に出てしまったんだろう。一瞬止まったところを見ると、歩道に出て初めてこちらを認めて、恐らくびっくりしたんだろうな。
そう考えたら、少しばかり背筋がひやりとした。
自分が運転手の立場でも考えた。自分はああいう運転はしないという確信がある。駐車場から出るとき、後ろからせっつかれるようなこともないから、ゆっくり確認して出ていけばいい。急ぐ理由なんて一つもない。


歩行者の立場で2
DATE: 01/21/2006 01:18:32 PM

やはり仕事からの帰り、最寄り駅からメイン通り沿いの歩道を、我が家へと向かって歩いていた。
住宅街なので、メイン通りへ出る路地がいっぱいある。我が家にほど近いところで、路地(こちらから見て右側)から1台の車がメイン通りに向かってくるのが見えた。
何歩か歩いて、合流点の手前で立ち止まる。間もなくその車も合流点にきた。
こちらは運転手の様子をじーっと見る。
その車の運転手は、こちらを一度も見ることなく、ひたすら右側だけを見て、そのままの姿勢で、曲がろうとする方向を見ることもなく、車を停めることもなく、見事に左カーブ。
ウーン見事、感心した!。
曲がり終わったところで、運転手はようやくこちらを見た。運転手の表情まではよく読みとれなかったが、恐らく相当にびっくりしたはずだ。
その運転手は、恐らく地元の人で、自分の走る道路はしっかり知り尽くしているのだろう。でも、ちゃんと見ないと危ないな。
その運転手は中年のおばさんだった。


歩行者の立場で3
DATE: 01/23/2006 02:48:31 PM

通勤のために駅に向かう途中、一方通行の道がある。こちらの進む方向と車も同じ方向になっている。
ある日、その道の左端を歩いていた。左端に駐車している車がいたので、道路の中央に寄ってその車を過ぎようとしているとき、後ろから音もなく車がゆっくり近づいてきた。
こちらはそれに気づかず、駐車している車を過ぎたあたりで道路の右端へ移動しようとして、足を1歩踏み出そうとしたら、すぐ横に車がいるのに気づいて、咄嗟に足を止めた。
我が身を道路の左端に寄せつつ、運転手を睨みつけた。運転手は女性だったが、助手席に男性が乗っていた。二人ともびっくりしたようだ。おそらく二人は夫婦で、亭主を駅まで送ろうとしていたのだろう。車はやがて静かに通り抜けて行ったが、助手席の男性は、後ろ向きになりながら何か言いたそうに、こちらを睨み続けていた。
車の助手席の男性は「気をつけろ」とでも言いたかったのだろうが、それはこちらが言いたい台詞だろう。
その道路は1車線しかないが、歩行者が端を歩いていれば車は無理なく歩行者を追い越せる程度の幅がある。駐車している車のある狭いところで追い越そうとすることはないじゃないか。


歩行者の立場で4
DATE: 01/28/2006 09:00:39 PM

幹線道路と幹線道路が交差する交差点の一方の道路で、赤信号のために右折専用レーンで信号待ちしていた車があった。その左側の直進+左折レーンにも信号待ちの車が数台いた。

と、まだ赤信号なのに右折専用レーンにいた車が右に動き出して、右側の横断歩道に入り、そして正面の横断歩道に入り、結局直進方向へ赤信号のまま走り抜けてしまった。
交差点で追い越してしまった形だ。

その車の運転手は女性だったが、右折レーンに入ったことが間違いであることに気づいて、こういう行動をとったのだろうか。
勇気あるねえ。でも違反だよなあ。


歩行者の立場で5
DATE: 02/02/2006 02:48:17 PM

幹線道路の歩道を歩いていると、幹線道路へ合流する路地がいっぱいあって、この路地には歩道より少し後ろの場所に必ず一時停止線があることが分かる。
この一時停止線で停止している車を見ることはまずない。必ずといっていいほど、そのまま幹線道路ぎりぎりまで車を進めて、そこでようやく停止して左右を確認している。
幹線道路の車しか関心がないかのように見える。歩行者が近づいている場合でもそうだ。
歩行者から見ると、わが進むべき方向が塞がれた形になる。
こういう形になると、歩行者としては、その車がすぐ出て行きそうなら、車が去ってから前へ歩くことになるし、しばらく止まっているようなら、その車の前を通るのは怖いから、後ろに回ることになる。
こういう風に、わが進むべき方向が塞がれてしまう形になることが少なからずある。
運転手は殆どの場合、当たり前のような顔をしている(ように見える)。
まず第一に歩行者の存在を確認するべきで、歩行者が近づいているなら、停止線で一旦停止して、歩行者の歩くスペースをしっかり確保して、歩行者を安全に通過させるのが原則であると思う。守られていないねえ。


歩行者の立場で6
DATE: 02/14/2006 11:17:44 AM

都心のある幹線道路の左側の広い歩道を、晴天の中のんびり歩いていた。何も考えずに。
左側からは路地が何度も歩道を切っている。そんな一つの路地にさしかかって、歩道の切れ目から1・2歩足を踏み出したとき、突然後方から左折車がやってきて、前を塞ぐ手前で急停止した。こちらも踏み止まる。その車は間もなく走り去っていった。
こちらが踏み止まらなければ、間違いなくその車に接触していた。車が停止した位置は、そういう位置だった。
その車はこちらの歩き方を見て、咄嗟に通り抜けようと判断したのだろう。
でも、もし歩行者が足の弱い人だったなら、踏ん張ることができずに、前へ倒れることだってあるかも知れない。
既に歩行者が交差点に入っているのだから、車はもう少し手前で止まって、歩行者を先に安全に通すべきだろう。
結局事故に至らなくて、そのまま過ぎてしまえば、忘れてしまう小さいことかも知れないが、こういう際どいケースは意外に多いのではないかと思う。
逆に、自分が運転手の立場でどうだろうか。こういう場面になることは滅多にないが、皆無ではない。
運転手は、常に謙虚さを失わないことが大切だ。生意気な運転にならないよう心掛けたい。運転者にとって歩行者は神様だ。


歩行者の立場で7
DATE: 02/16/2006 01:07:48 PM

通勤の帰り、いつも歩く幹線道路の歩道を歩いていた。
この道路を別の幹線道路が横断する信号のある交差点に近づきつつあった時、いきなり前方からけたたましい警笛音が聞こえた。
何事かと思って前方を見たら、当方が歩いている道路の信号の向こう側にある横断歩道をジョギング風に渡りつつあった年配の男性がいた。その手前で右方から右折しようとしていた小型トラックが急停止していた。
歩行者はびっくりして、一瞬立ち止まったが、やがて走り抜けた。小型トラックも間もなく走り去った。
歩行者が渡ろうとしている横断歩道で、こんな生意気な運転をしてはいけない。
歩行者にとって信号が青なのだから、歩行者が安心して横断歩道を渡れるよう、車は余裕を持って停止しなければならない。
運転者は歩行者の安全を守る義務がある。威嚇的に警笛を鳴らすなんて、言語同断。


歩行者の立場で8
03/03/2006 09:27:12 AM

幹線道路の右側の歩道を歩いていて、手押し信号のある横断歩道にさしかかろうとしていたとき、進行方向の信号が点滅を始めて、左側へ渡る歩行者用の信号が間もなく青に変わりそうだった。そこで渡るために、信号が青になるのを待つべく立ち止まった。
向こう側の道路には、1台の車がタイミングよくやってきて、右折ウインカーを出しながら、停止線を大きく越えて一瞬停止した。既に信号が赤になっていた幹線道路の向こう側の車線には、1台の車が停止していた。
やがて歩行者用の信号が青に変わったので、普通の速度で歩き始めた。
向こう側にいた右折車もほぼ同時に動き出して、幹線道路の中央線を踏みながら、余裕で通り去っていった。
右折車との間には十分な距離があったから、全く危険な場面はなかった。素早く右折して通り抜けた右折車の運転が見事というべきか。
ウーン、こういう場面では右折車は歩行者が安全に通過するのを待つべきじゃないのかな。


歩行者の立場で9
DATE: 03/26/2006 02:48:13 PM

最寄りの駅からの帰宅途中、いつもの経路を歩いて、歩道のない一方通行の車道から幹線道路との交差点で右に折れて歩道に入った。
ここの角地にはコンビニがあって、道路に接する部分は来客用の駐車場になっていて、見通しがいい。
歩道に入ってすぐ、前方にはコンビニから出て、幹線道路へ出ようとしている車が歩道を塞いでいた。
やむなく、車の後ろへ回り込んで通過しようとして、歩いたところ、その車が突然バックしてきて、再度こちらの進路を塞いだ。
歩道が空いたので、歩道に戻って、その車の運転手に手で挨拶して車の前を通過した。
そのとき車の運転手は何の反応も示さなかった。
やがてその車も幹線道路へ出て右折して走り去っていった。結局何事も起きなかった。

さて、その車の運転手は、歩行者が近づいていることに全く気がついていなかったのではないかと思う。こちらが車に近づいて、後ろに回ろうとしたとき、初めて歩行者に気がついたのではなかったか。
歩行者に気がついて、歩行者のためにスペースを空けようとした行動は悪くはないが、タイミングが遅すぎた。
この場所は見通しのよいところなのだから、周りをちゃんと見て、もう少し早めに歩行者の存在に気づくべきだし、このときのタイミングだったら歩道に出ずに待ち、歩行者にはっきり分かるように合図して、歩行者が安全に通過するまで待つのが正しい態度だと思う。


歩行者の立場で10
DATE: 03/30/2006 11:28:54 AM

片側1車線で、普通車が1台が入れるくらいの路側帯(?)が設けられている、比較的ゆったりした道路がある。
こういう道路の大きな交差点では、路側帯部分も使って進入側を2車線とし、一方が直進+左折、一方は右折専用などに分けられていることがよくある。
歩道を歩いて、このような交差点にさしかかったとき、一方の道路を2台の車がこの交差点に向かって走ってきた。
先頭がクロカン四駆、後ろが軽自動車だった。
交差点の少し前で信号が青に変わったので、クロカン車は停止することなく交差点に入って直進した。
ところが、後ろにいた軽自動車は右折専用車線に入ってスピードを上げ、交差点の中でクロカン車に並び、交差点を少し過ぎたところでクロカン車を追い越してしまった。
ウーン、何という乱暴な運転! 暴走! 逆走! あきれた。どうしてこんな乱暴な運転をするのだろう。
歩行者はちゃんと見ているよ。


歩行者の立場で11
DATE: 04/13/2006 04:32:40 PM

住宅地の中には、車両通行帯はないが、両側に路側帯があって、普通車同士であれば減速して難なくすれ違うことができる程度の道路が交錯している。
そのような道路を自転車でゆっくり走っていた。
後ろにもう一台の自転車がほぼ同じペースで走っていた。
やがて同じ規格の道路が交差する信号のない交差点にさしかかろうとしていた時、前方からワンボックス車が近づいてくるのが見えたので、左に寄って減速した。ワンボックス車も減速して、こちらが交差点を少し過ぎたあたりで、ワンボックス車とすれ違った。

すれ違った直後、後方から ガツン! という激しい衝撃音が聞こえた。
振り返って見ると、今すれ違ったばかりのワンボックス車に、交差点を左折してきた乗用車が衝突していた。
その乗用車はかなりのスピードで走ってきたようだ。
ワンボックス車の運転手は若い母親で、後部座席に女の子が1人乗っていた。
一方の乗用車の運転手は中年の男性で、助手席に中年の女性が乗っていた。二人は夫婦と思われた。

幸いどちらにもけが人は出なかったようだが、車両の前部はかなり破損していた。
やがて乗用車の女性が携帯で警察に連絡していた。

交差点のある場所は角地が空き地になっていて視界がよく、その乗用車からは、自転車が2台通っていたことも、交差点にワンボックス車が近づいていたことも容易に見えるはずの場所だった。

このような場所で何故事故が起きたのか。
ワンボックス車の側に落ち度はなく、乗用車の側に殆ど100%の落ち度があったように思われた。
乗用車の運転手は、携帯で話をしていたか、それともよそ見をしていたのか、いずれにしても前方不注意であったことと、スピードの出し過ぎであったことは間違いない。
このとき後ろの自転車は、交差点を過ぎた辺りにいたから、乗用車の運転手は直前になって自転車の存在に気づいて、慌ててハンドルを切ったのかも知れない。
何れにしても、乗用車が交差点に近づいて十分に減速し、周りをしっかり見渡していたなら、起きるはずのない事故だった。このような不注意かつ生意気な運転はしないよう戒めたい。


歩行者の立場で12
DATE: 05/14/2006 03:07:35 PM

自宅近くのファミリーレストランに自転車で行き、昼食を摂った後自転車に乗って帰ろうとしていたとき、この店の駐車場から1台の車が歩道に乗り上げて、向こう側の車線へ出て右折しようとしていた。ここで突然この車がけたたましい警笛を鳴らした。

何事かと思ってよく見ると、向こう側の車線には車が1台もなく、こちら側の車線には信号待ちで止まっている車の列ができていた。
列の中の1台の車が車道に出ようとしていた車の進路を塞ぐ形になっていたが、進路を塞いでいた車道上の車の前には車1台分以上のスペースがあったので、この車が少し前に進めれば、歩道にいた車は十分車道へ出られる状態だった。
この状態で歩道にいた車は、威嚇するかのように激しく前に進んで、車道の車に接触する寸前でガツンと急停止した。
直後に止まっていた車の列が動き出して、歩道の車は何やら汚い捨てぜりふを残して右折して走り去っていった。

車道にいた車は気を配ってスペースを空けるべきだと思うが、車道に出ようとしていた車のマナーの悪さにも呆れた。信号で流れが止まっているタイミングで右折したい気持ちはよく理解できるが、警笛を鳴らすにしても軽く鳴らせばよいのだし、その後の威嚇的行為はいただけない。どうしてそんなに急ぐのかな。


歩行者の立場で13
DATE: 06/07/2006 02:44:45 PM

片側1車線の道路の信号のある交差点で、進入側の車線が右折専用車線と直進・左折車線など2車線に分けられるている場所が多い。
このような交差点で、右の右折車線に1台、左の直進車線に1台の車が信号待ちで停止していた。信号の向こう側の対向車線も同じように1台ずつ並んで待機していた。
信号はまだ赤のままである。

と、右折車線にいた車が動き出して右折を始めた。
左車線の車もつられるように動き出したが、信号がまだ赤のままであることに気づいてすぐに停止した。
右折車は信号が赤のまま右折を完了して走り去った。右折車の運転手は女性だった。
ややあって信号が青に変り、何事もなかったかのように車の流れができた。

この右折車の運転手は、対向車線の直進車が出るより先に右折してしまいたかったのだろうが、うっかりミスというようなものではない。
たまに見かける光景だが、許されない悪質な確信犯だ。
みんなが同じようにルールを無視するなら、道路の秩序など保てるわけがない。


歩行者の立場で14
DATE: 06/26/2006 04:42:46 PM

都心部の片隅にある片側1車線の道路で、信号のない交差点の横断歩道を渡ろうと、1・2歩進んだところで、右方からかなりのスピードで1台の車が近づいてきた。
このまま歩を進めれば、もしその車がスピードを緩めないならば、こちらが撥ねられそうな感じだったので、立ち止まって様子を見る。
その車は、こちらが止まることを確信していたのか、スピードを緩めることなく、あっという間に走り去っていった。

都心部ではごくありふれた光景だが、そもそもこれは重大な道交法違反ではないのか。
片側1車線しかない道路で、歩行者が既に横断歩道の中に入って渡ろうとしているのだから、車は絶対に横断歩道の手前で停止するべきだし、そもそも、その前にちゃんと減速して、歩行者が安心して渡れるよう、停止することを意思表示するべきだろう。
警察は、ネズミ捕りのような詰らないことをするより、意味のないスピード違反を捕まえるより、こういう悪質な違反をしっかり取り締まるべきではないのかな。


歩行者の立場で15
DATE: 08/14/2006 11:11:15 AM

朝の通勤時に某駅を降りると、目の前に片側3車線の大きな車道がある。この車道を渡るべく、横断歩道の信号が青に変ったところで歩き始めた。
ところが、向こう側の3車線のうち、2車線が横断歩道を塞いで、その前後も車が並んだまま止まっていた。
やむなく細心の注意を払いながら、車の間をすり抜けるようにして何とか横断した。
おそらく、車道側の信号が青の状態で、前方が詰まっているにもかかわらず、交差点の中に入ってしまい、何台かの後続車もこれに続いて、動けない状態のまま信号が変ったものと推察される。
恒常的に渋滞している都心の道路でも滅多に見られない光景だ。
前方の状態をよく読まずに交差点に進入したのは、やはり不注意というべきだろう。
運転者は、常に心に余裕を持って、歩行者の安全に気を配りつつ運転するよう心がけたい。
15 投稿日:2019/09/18
平賀源内が胸膜中皮腫?

パソコンに貯めてある古い資料を弄っていたら、下のようなものがあった。

平賀源内が、火に焼けない布(火浣布)を作ったという話は、よく知られているところだが、両神山で石綿(アスベスト)を発見して、これを織って、布を作ったというのは、本当かなあ。とても信じられない。
超微小サイズの針状鉱物粒子なのに、どうやって見つけたというのだろうか。
まして、これを使って布を織るなど、当時そんな技術があったのだろうか、とても信じがたい。

信じがたいことだが、もし事実なら、この記事の筆者が最後に指摘しているように、平賀源内がアスベストをたっぷり吸いこんで、胸膜中皮腫にかかったとしても、全く不思議ではない。

下の記事の絵の中の立て札にも書いてある。
 −明日ベストは 明日ワーストの恐れ有 奉行所−
ふむ、フム、・・・奉行所の言うことは、本当かも知れない。

それにしても、平賀源内の晩年は、誰にも相手にされず、変人扱いにされて、不幸せだったようだ。
生まれる時代が早すぎたのかも知れない。
もし彼が今の時代に生きていたなら、世界中をあっと驚かす、超有名な開発者になっていたのではなかろうか。


(「歴史読本」2005年11月号の記事より切り取り)

14 2019/09/12
よく見る夢

小生は、子供の頃は怖い夢をよく見たものだが、大人になってからは、怖い夢もそうだが、あまり夢を見ないのである。というより、夢を見ても、目覚めてから内容を覚えていない、というのが本当だろうか。
それでも、ごく稀には夢を見ることがある。
でも、それは怖い夢ではなく、文字通り、「夢に満ちた」内容であることが多い。
例えば、以下のような内容の夢を何度か見ている。
普通に外に出ていたある時、小生の体が何となく、フアーっと浮き上がるのを感じた。
あれっ!、浮いてる、・・・
ほんの少し、下腹に力を入れてみたら、もっと浮いた。そして、静かに着地した。

もう一度やってみよう、・・・
1mくらい浮き上がって、1mくらい先に静かに着地した。
跳躍というものではなかった。ちっとも踏ん張っていないのだから、・・・

更にもう一度やってみよう、・・・
今度は5mくらい浮き上がって、数m先まで進んで、やはり静かに着地した。
もしかしたら、俺は空を飛べるんだー! 歓喜した。

何度も、何度も、繰り返して練習しているうちに、普通に空を飛べるようになった。
いや、飛んでるという実感はなかった。ただ浮いてる、という感じだった。
でも、行きたい方向に、ちゃんと行ける。ホバリングではないのだ!
やっぱり、飛んでるのだ。嬉しいー!

もう、普通に空を飛べるようになった。
体のバランスなど、全く問題なかった。
空中に浮いているとき、どんな格好でも安定していた。

普通に空を飛んでいるとき、下界では車が走っていた。
多くの人々も歩いていた。いや、歩いているようには見えなかった。
まるで、アリたちがいっぱい集まって、たむろしているように見えた。
超!、気持ちいい、・・・

やがて、地べたの人々が小生に気づいて、何やら、驚いたり、喚いたりしているようだ。
それは、そうだろう。
人が空を飛ぶなんて、できる筈がないのだから、・・・
でも本当は、ちょっとしたきっかけで、誰にでも出来るのかも知れない。
しかし実際には、世界中で出来た人はいない。
それが出来ているのは、自分だけなのだ。何という幸せものだろう。
・・・
関連記事:夢って?
13 2019/09/10
トコロテンは「心太」?(昔の独り言)

2005年に、下のような記事をブログに投稿していた。

東京スポーツ11月25日号の記事。

トコロテンは「心太」という漢字だった。
パソコンで「ところてん」と入力したら、ちゃんと「心太」が候補にあった。
恥ずかしながら、知らなかった。(-_-;)

583年頃中国から伝来したらしいから、随分古い。
始めは「こころぶと」と呼ばれていたのが、「こころてい」や「こころてん」になり、江戸期に「ところてん」と呼ばれるようになったとか。
でも何故「心太(こころぶと)」なのか、分からない。

トコロテンの製法は中国から古くに伝わったらしいが、当時の日本人が何故「心太」という漢字を充てていたのか、今でも全然分からないままである。
「こごるもは」→「こころぶと」では、ちょっと飛躍し過ぎて、ついていけない。
12 2019/09/07
亀有は亀なしだった?(昔の独り言)

以下は2006年10月5日のブログ投稿記事。
(参照資料:東京スポーツ10月6日号)

最近全く見ていないが、マンガでおなじみの「こちら葛飾亀有・・・」の亀有が昔は「亀無」だったとは、知らなかったなあ。(^_^;)
それに、特徴ある地形の高まりが「亀の背のような地形をなす」というところから「亀なし」になったというのも面白い。

「なし」の漢字には「梨」があてられたり、「無」が当てられたりしていたようだが、江戸幕府が国図を作成(1644)した際に、住民たちの「なし」は縁起が悪いという声を受けて、現在の「亀有」になったとか。
・・・ということらしい。

要するに、「亀のような地形をなす」→「亀をなす」→「亀なし」ということになったのかな?
にわかにはピンとこないが、・・・本当なのだろう。
11 2019/09/03
青梅市新町の公園たち

青梅市新町には、先の記事で取り上げた「大井戸公園」や「大山公園」の他にも、新町村を開発した吉野織部之助にまつわる史跡に関連した公園が幾つもある。
ここでは、小生が訪ね歩いたそれらの公園たちについて、設置されている案内板の内容をまとめて記録しておくことにしよう。

富士塚公園

この公園は、青梅市立新町小学校の北側にある東西に細長い公園であり、この中に昔の‘富士塚’がそのまま残されている。
  西間(三島)原の由来

 新町が江戸時代の初め新田開発として成立
する以前、村の東方にあたって十数戸の集落が
あったが、戦乱に巻きこまれ、全戸立ちのいて
廃村になったと伝えられている。この村は三島
と呼ばれ、伊豆の三島から移住したからといわ
れ、また西間とも言いかえられ、現在でも西間
原という字名が残っている。
 新町を開拓した吉野織部之助の手記である
「仁君開村記」には、織部之助が代官に一村を取
り立てることを願い出て許されたが、それ以前
に三島村が戦乱で立ちのき潰れてしまったこと
を理由に、開村協力の出百姓が集まらなかった
と記している。
 これは慶長十六年(一六一一)のことであっ
て、その地が三島村の跡(西間原)として伝承さ
れている。

 平成元年一月九日
 青梅市教育委員会


桜株公園

青梅街道の「新町桜株」交差点から近いところに、この公園がある。
     桜株公園

「桜株」は、青梅街道とJR小作駅東口から藤橋
に向かう南北の道路との交差点(新町桜株交差点)
を言います。
 この「桜株」の桜は、新町村が江戸時代初期に開
発された際、南北十町余(約1.1キロメートル)
にわたり設けられた防風林とともに集落の東側に植
樹されたと伝えられています。
 明治14年(1881年)七月15日、英国公使
館勤務のアーネスト・サトウは、「村の入り口には大き
な桜の木が2本あって、一番太いところを測ったら
六フィート10.5インチ(約2メートル10センチ)
もあった。」と旅行記に記録しています。
 また、明治16年(1883年)6月の「皇国地
誌 新町村詩」に村の元票地点や名樹として「新町
桜」が記載されています。
 残念ながら、この桜の木は現在、残っていません
が、庚申塔と馬頭観音が保存されています。


蔵屋敷公園

コープみらい青梅新町店の北西側にある。
蔵屋敷公園

 新町村の開拓者「吉野織部之助」が慶長十六年(一
六一一)からの新田開発の様子を書き残した『仁
君開村記』の中に、「屋敷取りの南側の千二百坪(約
四千平方メートル)の場所を陣屋敷とする」と記さ
れていますが、「蔵屋敷」という名称の由来は、明ら
かではありません。ただ、この付近に食料の貯蔵庫
を建てたと伝えられ、その名の由来になったといわ
れています。
 また、享保三年(一七一八)七月の『新町村差
出明細帳』の中には、既に「蔵屋敷」と明記され
ており、当時、この地名が存在していたことがわか
ります。
 なお、明治十六年(一八八三)六月の『皇国地
誌 新町村誌』には、「明治九年(一八七六)に行
われた地租改正の際、旧字の蔵の西、蔵南などを合
併して、「蔵屋敷」に改めた」と記載されています。


植木内公園

この公園は、「わかぐさ公園」から少し東寄りのところにある。それほど大きくはないが、小さい方でもない。
園内にはローラー滑り台があるし、バラも植えられている。
         植木内公園

 「植木内」とは、「植木外」とともに、新町村を開
拓した際、集落の東はずれに植えられた防風林と関
わりがある地名と考えられます。
 新町村の開拓者「吉野織部之助」が新田開発の様
子を書き残した「仁君開村記」の中に新田開発基本
計画書とも言うべき「村形方格定之事」という項目
があります。そこには、「村のはずれに、横幅十間
(約18メートル)、南北十町余(約 1.1キロメー
トル)にわたり風除けに並木を植える」と記されて
います。要するに、集落の東に広がる西武蔵野の原
野から吹き込む土ほこりに対処するため、防風林を
築いたのです。防風林の並木は、現在のJR小作駅
東口から藤橋に向かう南北の道路に沿うように植え
られていました。
 この防風林をはさんで西側(集落のある側)の地
名を「植木内」と呼び、東側(集落の外側)の地名
を「植木外」と呼びました。


南植木外公園

青梅線小作駅東口から藤橋へ向かう幹線道路の東側で、青梅街道と誠明学園の間に「南植木外公園」がある。
「南・・・」とあるから、「北・・・」もあるのかなと思ったのだが、「北・・・」は探しても見つからなかった。どうやら無さそうである。
南植木外公園

 「植木外」とは、「植木内」とともに、新町村を開
拓した際、集落の東はずれに植えられた防風林と関わ
りがある地名と考えられます。
 新町村の開拓者「吉野織部之助」が新田開発の様
子を書き残した『仁君開村記』の中に新田開発基本
計画書とも言うべき「村形方格定之事」という項目
があります。そこには、「村の東はずれに、横幅十間
(約十八メートル)、南北十町余(約一.一キロメー
トル)にわたり風除けに並木を植える」と記されて
います。要するに、集落の東に広がる西武蔵野の原
野から吹き込む土ほこりに対処するため、防風林を
築いたのです。防風林の並木は、現在のJR小作駅
東口から藤橋に向かう南北の道路に沿うように植え
られていました。
 この防風林をはさんで東側(集落の外側)の南部
の地名を「南植木外」と呼び、西側(集落のある側)
の地名を「植木内」と呼びました。


鈴法寺公園

青梅市立霞台小学校の南側の青梅街道に、「鈴法寺跡前」という名のついた交差点があり、この交差点の北東側角に、「鈴法寺公園」という小さい公園がある。
 東京都指定旧跡
   鈴法寺跡
    所在地 青梅市新町一の二十二の十八
    指 定 昭和四五年八月三日

 鈴法寺は、普化宗草本時の一つとして武蔵
幸手の藤袴村に創建され、天文元年(一五三
二)に川越の足草村に移りました。普化宗は
中国の唐代に成立した禅宗の一派で、宗徒が
虚無僧の姿をしていることで有名です。慶長
十八年(一六一三)、住持月山洋風は、同じ
くかつて後北条氏の家臣で忍城にいた吉野織
部之助が新町村を開拓していたことから、再
度寺を新町村に移住しました。
 徳川幕府によって普化宗は庇護され、霊法
寺は全国一二十個所余りあった普化宗寺院の
根本道場の一つとして、明治四年(一八七一)
の普化宗廃宗まで栄えました。しかし、明治
二八年に火災に遭い、堂宇は消失、現在では
寺域の北東隅に歴代住持の墓が残るにすぎま
せん。

 平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
10 2019年9月2日
藤橋城跡(昔の独り言)

‘05年2月に投稿した小生のブログ記事である。
昨日今寺天皇塚水田を歩いた際、ついでに藤橋城跡も訪ねた。
この辺に城跡があるらしいことは知っていたが、訪ねたのは初めて。

天皇塚水田からの写真を「マイフォト―風景」に添付。集落の右側の小高い林の中が城跡。

下の写真は、この城跡の案内(青梅市教育委員会)。
説明板の写真

上の説明文は、置いてあった案内板を写真に撮って、切り取り加工して添付したものだが、少々読みづらい。
という訳で、当時の原画を探して、再度内容を確認した。その内容を下に示す。
 市指定史跡 藤橋城跡

現存する遺構は、東西七十メートル×
南北六十メートルの曲輪と付属する腰曲輪、
土塁、空堀等であり旧態をとどめている。
 「武蔵名勝図鑑会」(文政三年・一八二0)
に、次のように記されている。「平山越前守
虎吉という人の住居の地なり。この平山氏
は北条氏照に仕えたる人なり。平山右衛門
大夫・同伊賀守などは檜原村に城跡あり。
又、平井村・大久野村あたりは平山氏が旧
跡なれば、この越前守もその一族なるべし。
ここは土居を廻らし、城跡もありて、その
内の広さ東西二十間余、南北凡そ五十間程、
入口の城戸門跡と覚しきところは南向きに
て、しべて平地なり。西より北へ廻らして
今井村の水田に臨み、霞川の流れを帯びた
り。この辺は崖にして高さ二丈あまりな
り。」

 昭和二十八年十一月三日 指定
 青梅市教育委員会

調べたところ、‘05年2月6日に、今寺天皇塚水田から藤橋城跡へと向かっていたようだ。
下の写真は、今寺天皇塚水田側(城の裏側)から撮った藤橋城跡の様子であり、この日に撮影している。
ついでに、小冊子「むさしの城ものがたり」32ページのコピーを添付しておこう。



09 2019年9月1日
懐古の井戸

青梅線小作駅東口の階段下の横に、下の写真のような‘懐古の井戸’が残されている。
この写真に見えている説明板には次のように書かれていた。
 懐古の井戸

 この井戸は、明治27年(1894)11月青梅ー立川間に青梅鉄道が開通した際に、下田伊左衛門らの尽力で小作停車車場諸施設とともに設置されました。掘削工事請負人は友田の細谷竹次郎ほか1名で、深さ27mもある。当時としては難しい井戸掘りでした。
 建設費190円50銭は、伊左衛門を筆頭に、現羽村・青梅市域の住民多数の寄付金で賄われました。小作駅の及ぼす生活圏・経済圏の広さと、人々の期待の大きさが伺われます。
 その後、住民の努力によってさらに2本の井戸が掘られ、明治・大正・昭和にわたって小作井戸組合が維持管理にあたりました。台地に水を得る困難を克服してきた先人たちの努力を、この井戸は物語っています。

                               羽村市教育委員会

現在のJR青梅線が、明治27年に青梅鉄道として開通し、同時に小作駅もできていたとは知らなかった。驚きである。
その時点で、この辺りには既に集落があったようで、生活に絶対必要な水を得るために、どうしていたのだろうか。
随分苦労したことだろうと想像する。
08 2019年8月31日
関東富士見百景(昔の独り言)

このホームページを今日オープンした。オープン後の初の投稿である。

さて、‘05年2月、こんな記事をブログ(ココログ)に投稿していた。
2005年2月 関東富士見百景

国土交通省関東地方整備局が“関東富士見百景”というのをやっていて、これに青梅市今寺の“天皇塚水田”が選ばれたらしい。

今日この場所に行ってみた。写真は山歩の写真→富士山に収録。
かなりかすんでいたのでボンヤリとしか写っていない。

いつの日か撮り直して写真を差し替えるとして、今日のところはこれでよしとしよう。

(下記資料は東京新聞1月20日(だったかな?)より)


上の記事の投稿日は不明だが、調べたところ、直後と思われる2月27日にそれなりの写真を撮影していたので、ここに取り上げておこう。
電線が少々うるさいが、前へ進んでも、後ろへ下がっても、別の電線があって、どうしても避けることができなかった。



下の写真は、ついでに撮影した大岳山方面である。


07 2019年8月22日
青梅新町の大井戸


上の写真は青梅市新町2丁目にある「大井戸公園」を、「御岳神社前」交差点の辺りから撮影したものである。
この公園は、公園の名前の由来である史跡の大井戸があるほか、春に見事な花を咲かせるボタン園があり、子供たちが喜びそうな噴水や遊具などが備えられていて、中々人気があるようだ。
小生も散歩の途中に立ち寄ることが多い。

さて、この公園の一画を占める東京都指定の「青梅新町の大井戸」についてである。(右の写真参照)

この場所に大井戸についての説明板が置かれているのだが、以前から老朽化が進んでいて、読みづらい状態が何年にも渡って続いている。
今では、とても読める状態ではない。どうして維持しないのだろうか。怠慢である。

下の説明文は、小生がずいぶん昔に残していた写真や文書を掘り起こして、何とか復元してみたものである。原文とは少し違う部分があるかも知れないが、やむを得ない。

隣の羽村市にも、これと同じ形態の「まいまいず井戸」と呼ばれる井戸があり、やはり東京都の指定史跡になっている。
ただし、羽村市の井戸は昭和27年11月の指定であるから、指定に関しては、こちらの方が先輩である。

いつ頃に造られたのかについては、よく分からないが、青梅市の「青梅新町の大井戸」の場合は江戸時代初期に新町村が開発されてからのことだろうと思われる。
これに対して、羽村市の「まいまいず井戸」は鎌倉時代に既に造られていた可能性がありそうだから、この面でも、「まいまいず井戸」の方が先輩のようである。

 東京都指定 青梅新町の大井戸
 所在地 青梅市新町2丁目2番地
 指定日 平成5年3月22日

 大井戸は、人が水口付近まで近づくための擂り鉢形の施設と水をくみ上げる筒井戸から
なる漏斗状の形をしています。このような形の井戸は、羽村市のまいまいず井戸(都指定
史跡)など、水の得にくい武蔵野台地等で構築されていますが、東西約22メートル、南北
約33メートル、深さ7メートルの擂り鉢部と周囲の盛土からなる大井戸は、なかでも最大
の規模をもつものです。
 この井戸が掘られた時期については、定かではありませんが、地表から筒井戸を構築
する技術が一般化する以前の様式であると考えられます。また、武蔵野を走る「古
青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道が交差する位置にあることから、おそらく江
戸時代の開発以前から道行く人馬の水を供給する場所となっていたものと思われます。
 新町村の開発は、慶長16年(1611)に下師岡村の土豪的農民吉野織部之助らによって始ま
りますが、この際、大井戸に大規模な改修が加えられ、塩野家井戸として使用されたこと
が、開村の様子を記した「仁君開村記」や発掘調査の結果から想定されます。さらに、筒
井戸の底付近から出土した、明和7年(1770)の年号と「永代不絶泉」の墨書をもつ願文石
から、その後も使用されていたことが明らかになりました。
このように大井戸は、中世後期から近世初期の武蔵野台地の開発に関する貴重な歴史的
遺構で学術的な価値も高い史跡です。
指定面積は2.12平方メートルです。

 平成10年3月30日     東京都教育委員会
                青梅市教育委員会
06 2019年8月22日
旧吉野家住宅


青梅街道の「鈴法寺跡前」交差点から少し東寄りのところに「旧吉野家住宅」がある。(写真参照)
ここに設置されている案内板には、以下のような内容が書かれていた。
 東京都指定有形文化財(建造物)
 旧吉野家住宅
  所在地 青梅市新町1−21−9
  指 定 昭和51年6月4日

 慶長16年(1611)、吉野織部之助(?〜1
639)は新田の開発に着手し、新町村が誕生し
ました。吉野家は、新町村の名主を代々勤めまし
た。現存するこの住宅は、安政二年(1855)三
月、下馬淵村(現在の青梅市長淵)の棟梁新兵衛
らによって建てられたものです。桁行10.5間
(約 19.1m)、梁間4.5間(約 8.1m)の茅葦入
母屋造で、建築面積は75.2坪(284.7u)
です。建物は整形六ツ間型、向かって右側はダイ
ドコロ、隣接するカツテは板の間でイロリが切
られています。左手奥の部屋(オク)は床・違い棚・
附書院を完備し、玄関には式台が付いています。
天井裏に当たる小屋組みの内部には、養蚕用の
タナ・オオダナが設けられています。幕末の名主
階級の民家として完成された多室間取りの姿を
良く伝え、多摩地方を代表する建造物です。

 平成22年3月 建設
 東京都教育委員会
青梅市新町の中を歩いていると、江戸時代初期に新町村を開発した吉野織部之助の名前が頻繁に出てくるが、この人がここに住んでいたわけではない。
この家が建てられたのは1855年とあるから、吉野織部之助の没後200年以上経っている。
吉野家の後継者は随分長い間、新町村の名主を務め続けたものである。何代続いたのだろうか。
新町村の開発から時は流れ、アメリカからの黒船の来航より少し前のことであり、何やら幕末のきな臭い匂いが漂い始めていた頃ではなかっただろうか。

とは言え、この辺りは江戸からは随分離れた田舎だったのだろうから、時代の流れには、あまり敏感ではなかったのかも知れない。
05 2019年8月20日
「わかぐさ」と「わかくさ」

小生宅に近いところに、青梅市が運営・管理している「わかぐさ公園」という大きな公園がある。
この公園は、野球場やプールのほか、コンビネーション遊具、ターザンロープ、ストレッチ遊具、色々な種類のブランコなどが充実しているし、ジョギング・ウォーキングコースなども用意されていて、中々に立派な公園である。

しかしながら小生は、濁点のついたこの呼び名に、いささかの違和感を覚えるのか、通常は「わかくさ公園」と、濁点を落として呼んでいる。それでも正しくは、「わかぐさ公園」なのである。

何故違和感を覚えるのか、小生自身にも、自分のことながら、よく分かっていない。
濁点がつくと、何となくだが、語呂が悪い、若そうでない、などと、勝手に感じているのかも知れない。

ところで、漢字の「若草」は、どう読むのだろうか。
「わかくさ」と「わかぐさ」をネットで検索したところ、どちらも多くのヒットがあり、全国に渡って使われているようだが、「わかくさ」で検索した場合は漢字も現れるが、「わかぐさ」で検索した場合は漢字はあまり出てこないようである。
このようにみると、漢字の「若草」は「わかくさ」と呼ぶことが多いのだろうと思う。
やっぱり濁点はつけない方がよいのである。

そういう訳なので、このホームページのタイトルを、「わかぐさ」ではなく、「わかくさ」とした次第である。

04 2019年8月18日
武蔵野台地西端の地(大山公園)


ここは、青梅市立泉中学校の東側にある「大山公園」という小さな公園だが、何やら歴史的に由緒のある場所であるらしい。
この公園の一画に、こんもりした小さな山が築かれていて、その山の天辺に写真のような石碑が置かれている。
その石碑には、次のような文字が刻まれていた。
新町開村三百八十年記念
武蔵野台地西端の地
平成八年三月吉日 青梅市
ここが何故、「武蔵野台地西端の地」であるのか、その根拠は分からないままだが、・・・

それはさておき、この石碑のある山の裏側に説明板が置かれていて、この場所の由来についての説明が書かれているので、その全文を残しておこう。
      大山(稲荷塚)の由来

 新町の開拓は、下師岡村(現師岡一丁目地内)
の名主吉野織部之助が、慶長15年(1610年)
幕府の新田開発の奨励を受けて、この地に村を
つくったことに始まる。
 武蔵野の原野に村づくりを始めた織部之助は、
協力の農民と屋敷を整え、元和二年(1616年)
村を完成した。吉野氏は出身が大和国吉野郷で
あることから、その地の蔵王権現を勧請して、同
家の鬼門に御岳神社を祀りさらに屋敷神として
稲荷神社を祀ったのが、この稲荷塚のいわれである。
今でも9月29日の御岳神社の例大祭の際は、
まず稲荷社をお祀りしてから始めるしきたりが
あるほど密接なつながりがある。境域は樹木に覆
われ、武蔵野の山林を象徴する森となっており、
地元の人はこれを大山と呼んで親しんでいる。

 平成元年一月九日
 青梅市教育委員会
03 2019年8月16日
靖国神社

「終戦の日」の昨日、安倍首相は東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に花束をささげた後、近くにある日本武道館に向かい、政府主催の「全国戦没者追悼式」に参加した。

終戦の日を迎えるたびに、必ず靖国神社がクローズアップされる。
そして、首相の参拝や、天皇の参拝はどうあるべきかが議論される。
そんな中、安倍首相ばかりかりか、閣僚も靖国神社へ参拝することはなかった。

こんなことで、「天皇陛下万歳」と叫び、「靖国神社で会おう」と約束して、国を守るためにわが身を投じていった人たちの霊を弔うことができるのだろうか。
問題を大きくしているのは、靖国神社に合祀されているA級戦犯やB,C級戦犯の扱いについて、議論がまとまらないことにあるのだろうと思う。
靖国神社は元来、戊辰戦争などで戦死した軍人や軍属を「英霊」として祀るために、明治天皇の肝いりで造られたものである。
この当初の精神に基づいて、「国のために戦死した軍人だけを祀る」ことを貫いてきたならば、何ら国際的な問題になることはなかっただろうと、残念に思う。

各国の追悼施設はどうなのか。米国、英国、韓国は軍人が中心になっているようだが、ドイツでは全ての犠牲者が対象になっているようである。

さて日本の追悼施設はどうあるべきなのか、党利党略などを考えずに、政権が転覆するかも知れない、などと恐れずに、積極的に議論をしてもらいたいものである。