20 投稿日:2019/10/08 八国山緑地の将軍塚 2005年6月12日に、東村山市の北山公園まで赴き、花菖蒲を観賞した後、この公園の北側にある「八国山緑地」まで足を伸ばし、ハイキングを楽しんでいた。 このハイキングの途中に、「将軍塚」と呼ばれる場所があり、これの説明板を写真に納めていた。 かつて新田義貞が、鎌倉幕府を倒す際に(倒した後なのかな?)、この地に一時逗留し、この塚に旗を立てたということらしい。 そして、この塚は古代からあったかも知れないようで、「富士塚」とも呼ばれていたらしいから、富士山信仰の場所になっていたのかな・・・。 説明板には、以下のような内容が書かれていた。 将軍塚 |
19 投稿日:2019/10/05 吉見百穴 小生が過去に撮った写真を眺めていたら、2005年5月28日に、埼玉県吉見町にある「吉見百穴」を訪れた時のものが、いっぱい出てきた。 その中の1枚に、この吉見百穴について書かれた説明板を撮ったものがあった。 その説明の内容を下に記しておく。 横穴式の石室 当時これを見た時は、横穴式住居の跡だろう、と思ったのだが、実はそうではなく、それなりに身分のあった人たちのお墓の跡だった。 小生の当時の認識は、この程度で止まっていたように思う。 ところが、よく読んでみると、聖徳太子の少し後に、大和朝廷が中央集権国家としての国家機構を作り、地方豪族たちの権力を制限する中で、このような簡易な墓がいっぱい作られるようになったらしいのである。 そして、
関連資料:吉見百穴のヒカリゴケ |
18 投稿日:2019/10/01 断鳥の思い?(昔の独り言) 2006年2月10日投稿のブログ記事である。 断鳥の思い? |
17 投稿日:2019/09/28 ブログ1年(昔の独り言) 小生が2005年1月26日にブログを開始してから、1年が経過した時点で、ブログへ投稿した感想文である。 このブログは、2010年の後半から投稿が減り始め、次第に尻すぼみになって、2012年4月の投稿を最後に、2年半以上も穴をあけていた。 そして、2015年1月に再開したものの、6月で、ぷっつり途絶えていたのだった。 その後、ブログは再開していないが、teacupの掲示板を使いながら、細々と繋いできた。 そういう経過を辿りながら、今年の8月末日に、ホームページ「わかくさ」をオープンしたのだった。 ブログ1年関連記事:ホームページ開設 |
16 投稿日:2019/09/22 歩行者の立場で(昔の独り言) 13年も前の 06年1月から、「歩行者の立場で」というタイトルの小文を、ブログに15編に渡って連載していた。 小文とはいえ、15編も一度に投稿すると、さすがに長くなるが、小分けにすると却って見づらくなりそうなので、一度に掲載することにした。 歩行者の立場で1 |
15 投稿日:2019/09/18 平賀源内が胸膜中皮腫? パソコンに貯めてある古い資料を弄っていたら、下のようなものがあった。 平賀源内が、火に焼けない布(火浣布)を作ったという話は、よく知られているところだが、両神山で石綿(アスベスト)を発見して、これを織って、布を作ったというのは、本当かなあ。とても信じられない。 超微小サイズの針状鉱物粒子なのに、どうやって見つけたというのだろうか。 まして、これを使って布を織るなど、当時そんな技術があったのだろうか、とても信じがたい。 信じがたいことだが、もし事実なら、この記事の筆者が最後に指摘しているように、平賀源内がアスベストをたっぷり吸いこんで、胸膜中皮腫にかかったとしても、全く不思議ではない。 下の記事の絵の中の立て札にも書いてある。 −明日ベストは 明日ワーストの恐れ有 奉行所− ふむ、フム、・・・奉行所の言うことは、本当かも知れない。 それにしても、平賀源内の晩年は、誰にも相手にされず、変人扱いにされて、不幸せだったようだ。 生まれる時代が早すぎたのかも知れない。 もし彼が今の時代に生きていたなら、世界中をあっと驚かす、超有名な開発者になっていたのではなかろうか。 ![]() (「歴史読本」2005年11月号の記事より切り取り) |
14 2019/09/12 よく見る夢 小生は、子供の頃は怖い夢をよく見たものだが、大人になってからは、怖い夢もそうだが、あまり夢を見ないのである。というより、夢を見ても、目覚めてから内容を覚えていない、というのが本当だろうか。 それでも、ごく稀には夢を見ることがある。 でも、それは怖い夢ではなく、文字通り、「夢に満ちた」内容であることが多い。 例えば、以下のような内容の夢を何度か見ている。 普通に外に出ていたある時、小生の体が何となく、フアーっと浮き上がるのを感じた。関連記事:夢って? |
13 2019/09/10 トコロテンは「心太」?(昔の独り言) 2005年に、下のような記事をブログに投稿していた。
トコロテンの製法は中国から古くに伝わったらしいが、当時の日本人が何故「心太」という漢字を充てていたのか、今でも全然分からないままである。 「こごるもは」→「こころぶと」では、ちょっと飛躍し過ぎて、ついていけない。 |
12 2019/09/07 亀有は亀なしだった?(昔の独り言) 以下は2006年10月5日のブログ投稿記事。 ・・・ということらしい。 要するに、「亀のような地形をなす」→「亀をなす」→「亀なし」ということになったのかな? にわかにはピンとこないが、・・・本当なのだろう。 |
11 2019/09/03 青梅市新町の公園たち 青梅市新町には、先の記事で取り上げた「大井戸公園」や「大山公園」の他にも、新町村を開発した吉野織部之助にまつわる史跡に関連した公園が幾つもある。 ここでは、小生が訪ね歩いたそれらの公園たちについて、設置されている案内板の内容をまとめて記録しておくことにしよう。 富士塚公園この公園は、青梅市立新町小学校の北側にある東西に細長い公園であり、この中に昔の‘富士塚’がそのまま残されている。西間(三島)原の由来 桜株公園青梅街道の「新町桜株」交差点から近いところに、この公園がある。桜株公園 蔵屋敷公園コープみらい青梅新町店の北西側にある。蔵屋敷公園 植木内公園この公園は、「わかぐさ公園」から少し東寄りのところにある。それほど大きくはないが、小さい方でもない。園内にはローラー滑り台があるし、バラも植えられている。 植木内公園 南植木外公園青梅線小作駅東口から藤橋へ向かう幹線道路の東側で、青梅街道と誠明学園の間に「南植木外公園」がある。「南・・・」とあるから、「北・・・」もあるのかなと思ったのだが、「北・・・」は探しても見つからなかった。どうやら無さそうである。 南植木外公園 鈴法寺公園青梅市立霞台小学校の南側の青梅街道に、「鈴法寺跡前」という名のついた交差点があり、この交差点の北東側角に、「鈴法寺公園」という小さい公園がある。東京都指定旧跡 |
10 2019年9月2日 藤橋城跡(昔の独り言) ‘05年2月に投稿した小生のブログ記事である。 昨日今寺天皇塚水田を歩いた際、ついでに藤橋城跡も訪ねた。 上の説明文は、置いてあった案内板を写真に撮って、切り取り加工して添付したものだが、少々読みづらい。 という訳で、当時の原画を探して、再度内容を確認した。その内容を下に示す。 市指定史跡 藤橋城跡 調べたところ、‘05年2月6日に、今寺天皇塚水田から藤橋城跡へと向かっていたようだ。 下の写真は、今寺天皇塚水田側(城の裏側)から撮った藤橋城跡の様子であり、この日に撮影している。 ついでに、小冊子「むさしの城ものがたり」32ページのコピーを添付しておこう。 ![]() ![]() |
09 2019年9月1日 懐古の井戸 青梅線小作駅東口の階段下の横に、下の写真のような‘懐古の井戸’が残されている。 この写真に見えている説明板には次のように書かれていた。 懐古の井戸 ![]() 現在のJR青梅線が、明治27年に青梅鉄道として開通し、同時に小作駅もできていたとは知らなかった。驚きである。 その時点で、この辺りには既に集落があったようで、生活に絶対必要な水を得るために、どうしていたのだろうか。 随分苦労したことだろうと想像する。 |
08 2019年8月31日 関東富士見百景(昔の独り言) このホームページを今日オープンした。オープン後の初の投稿である。 さて、‘05年2月、こんな記事をブログ(ココログ)に投稿していた。 2005年2月 関東富士見百景 上の記事の投稿日は不明だが、調べたところ、直後と思われる2月27日にそれなりの写真を撮影していたので、ここに取り上げておこう。 電線が少々うるさいが、前へ進んでも、後ろへ下がっても、別の電線があって、どうしても避けることができなかった。 ![]() 下の写真は、ついでに撮影した大岳山方面である。 ![]() |
07 2019年8月22日 青梅新町の大井戸 ![]() 上の写真は青梅市新町2丁目にある「大井戸公園」を、「御岳神社前」交差点の辺りから撮影したものである。 この公園は、公園の名前の由来である史跡の大井戸があるほか、春に見事な花を咲かせるボタン園があり、子供たちが喜びそうな噴水や遊具などが備えられていて、中々人気があるようだ。 小生も散歩の途中に立ち寄ることが多い。 ![]() この場所に大井戸についての説明板が置かれているのだが、以前から老朽化が進んでいて、読みづらい状態が何年にも渡って続いている。 今では、とても読める状態ではない。どうして維持しないのだろうか。怠慢である。 下の説明文は、小生がずいぶん昔に残していた写真や文書を掘り起こして、何とか復元してみたものである。原文とは少し違う部分があるかも知れないが、やむを得ない。 隣の羽村市にも、これと同じ形態の「まいまいず井戸」と呼ばれる井戸があり、やはり東京都の指定史跡になっている。 ただし、羽村市の井戸は昭和27年11月の指定であるから、指定に関しては、こちらの方が先輩である。 いつ頃に造られたのかについては、よく分からないが、青梅市の「青梅新町の大井戸」の場合は江戸時代初期に新町村が開発されてからのことだろうと思われる。 これに対して、羽村市の「まいまいず井戸」は鎌倉時代に既に造られていた可能性がありそうだから、この面でも、「まいまいず井戸」の方が先輩のようである。 東京都指定 青梅新町の大井戸 |
06 2019年8月22日 旧吉野家住宅 ![]() 青梅街道の「鈴法寺跡前」交差点から少し東寄りのところに「旧吉野家住宅」がある。(写真参照) ここに設置されている案内板には、以下のような内容が書かれていた。 東京都指定有形文化財(建造物)青梅市新町の中を歩いていると、江戸時代初期に新町村を開発した吉野織部之助の名前が頻繁に出てくるが、この人がここに住んでいたわけではない。 この家が建てられたのは1855年とあるから、吉野織部之助の没後200年以上経っている。 吉野家の後継者は随分長い間、新町村の名主を務め続けたものである。何代続いたのだろうか。 新町村の開発から時は流れ、アメリカからの黒船の来航より少し前のことであり、何やら幕末のきな臭い匂いが漂い始めていた頃ではなかっただろうか。 とは言え、この辺りは江戸からは随分離れた田舎だったのだろうから、時代の流れには、あまり敏感ではなかったのかも知れない。 |
05 2019年8月20日 「わかぐさ」と「わかくさ」 小生宅に近いところに、青梅市が運営・管理している「わかぐさ公園」という大きな公園がある。 この公園は、野球場やプールのほか、コンビネーション遊具、ターザンロープ、ストレッチ遊具、色々な種類のブランコなどが充実しているし、ジョギング・ウォーキングコースなども用意されていて、中々に立派な公園である。 しかしながら小生は、濁点のついたこの呼び名に、いささかの違和感を覚えるのか、通常は「わかくさ公園」と、濁点を落として呼んでいる。それでも正しくは、「わかぐさ公園」なのである。 何故違和感を覚えるのか、小生自身にも、自分のことながら、よく分かっていない。 濁点がつくと、何となくだが、語呂が悪い、若そうでない、などと、勝手に感じているのかも知れない。 ところで、漢字の「若草」は、どう読むのだろうか。 「わかくさ」と「わかぐさ」をネットで検索したところ、どちらも多くのヒットがあり、全国に渡って使われているようだが、「わかくさ」で検索した場合は漢字も現れるが、「わかぐさ」で検索した場合は漢字はあまり出てこないようである。 このようにみると、漢字の「若草」は「わかくさ」と呼ぶことが多いのだろうと思う。 やっぱり濁点はつけない方がよいのである。 そういう訳なので、このホームページのタイトルを、「わかぐさ」ではなく、「わかくさ」とした次第である。 ![]() |
04 2019年8月18日 武蔵野台地西端の地(大山公園) ![]() ここは、青梅市立泉中学校の東側にある「大山公園」という小さな公園だが、何やら歴史的に由緒のある場所であるらしい。 この公園の一画に、こんもりした小さな山が築かれていて、その山の天辺に写真のような石碑が置かれている。 その石碑には、次のような文字が刻まれていた。 ここが何故、「武蔵野台地西端の地」であるのか、その根拠は分からないままだが、・・・ それはさておき、この石碑のある山の裏側に説明板が置かれていて、この場所の由来についての説明が書かれているので、その全文を残しておこう。 大山(稲荷塚)の由来 |
03 2019年8月16日 靖国神社 「終戦の日」の昨日、安倍首相は東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に花束をささげた後、近くにある日本武道館に向かい、政府主催の「全国戦没者追悼式」に参加した。 終戦の日を迎えるたびに、必ず靖国神社がクローズアップされる。 そして、首相の参拝や、天皇の参拝はどうあるべきかが議論される。 そんな中、安倍首相ばかりかりか、閣僚も靖国神社へ参拝することはなかった。 こんなことで、「天皇陛下万歳」と叫び、「靖国神社で会おう」と約束して、国を守るためにわが身を投じていった人たちの霊を弔うことができるのだろうか。 問題を大きくしているのは、靖国神社に合祀されているA級戦犯やB,C級戦犯の扱いについて、議論がまとまらないことにあるのだろうと思う。 靖国神社は元来、戊辰戦争などで戦死した軍人や軍属を「英霊」として祀るために、明治天皇の肝いりで造られたものである。 この当初の精神に基づいて、「国のために戦死した軍人だけを祀る」ことを貫いてきたならば、何ら国際的な問題になることはなかっただろうと、残念に思う。 各国の追悼施設はどうなのか。米国、英国、韓国は軍人が中心になっているようだが、ドイツでは全ての犠牲者が対象になっているようである。 さて日本の追悼施設はどうあるべきなのか、党利党略などを考えずに、政権が転覆するかも知れない、などと恐れずに、積極的に議論をしてもらいたいものである。 |