青梅市指定史跡 中原 章の墓
中原(なかはら)章(あきら)は江戸時代中期の学者で、江戸の文化はもちろんのこと、京都の堂上文化をも青梅へ導入し、江戸時代後期における青梅文化の発展に、大きく貢献した人物です。
加賀国(石川県)出身で、若いころは京都で、和学・雅楽・弓術・鷹狩の故実・剣術を学んだといわれています。いつのころにか常保寺に寄寓(きぐう)し、また市中に学塾を開いて門下生の指導に当たりました。門下からは、漢学や和歌に長じた根岸典則(ねぎしつねのり)、書家として著名な小峰峯真(こみねほうしん)、真浄寺の住職で歌人として知られた浄月律師(じょうげつりっし)、俳諧の分野で活躍した師岡公貞(もろおかきみさだ)など、多くを出しました。山状角柱型をした墓石は、安山岩製で2段になっており、基壇は高さ約24p、その上に乗る上段は高さ約115p、幅約34pの大きさです。正面には大きく「中原 章之墓」と彫られ、その左下には小さく「友人□□」と彫られています。この文字は門弟の小峰峯真が記したもので、周囲の三面には常保寺十一世の住職である、小蓑庵支兀(こみのあんしこつ)和尚が撰(よ)んだ文面(漢文)が次のような意味で記されている。 「先生の出身は明らかではないが、姓は多賀、名は章、字は士文と称し、また号を五柳ともいった。大変博識な人で、何を聞いても答えられないものはないというほどであった。小食にして多飲、専ら冷酒を愛好した。多摩川のほとりに14年ほど漂泊した後、庵を蒼梅(青梅)市中に結び、慕って集まる人たちにいろいろな事を講じた。晩年は髯(ひげ)をたくわえ、衣 服なども意に介せず粗末な服装で通した。虱(シラミ)がたかっても、それをとることもなく、またつぶすでもなかった。周囲の人が心配して新しい衣服を贈っても、それを着替える事すらしなかった」
生誕については不明ですが、寛政2年(1790)10月1日に他界しました。70数歳であったといわれています。手記には次の歌が書かれている。
『 同じくは かくて吾が世をふる寺に
すみはてぬべき 身とならばや 章 』
なお、章の墓の左側には、文化3年(1806)に没した正岡玄道の墓があります。玄道は狂歌を好んだ文人でした。
昭和28年11月3日 青梅市教育委員会指定史跡
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